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小説 『長い坂』 第七話

 35歳になった自分を想像してみる。きっとこんな感じだ…。

 目が覚めた。スマートフォンに設定していた目覚ましを止める。体が重い。ついでに頭も重い。しばらくベッドでぼおっとしてから、おもむろに窓のカーテンを開ける。開かれたベッド脇の窓から光が差し込んでくる。太陽の光に目を細めた。欠伸をする。おはようと呟いた。返事はない。当たり前だ、ぼくは一人暮らしだから。ぼくが一人暮らしをはじめてから、もう何年経っただろうか?大学を出て、新卒で働きはじめてからだから、もう10年にはなる。この部屋には、ぼく以外の人間が入ったことがない。別に拒絶しているわけではないけれど、自然とそうなった。ベッドから出て、キッチンで口を濯いだ。コップ一杯の水道水を飲んで、ワイシャツに着替えた。朝食は、昨日コンビニで買った菓子パン一つ。ペットボトルの緑茶と一緒に胃に流し込む。歯を磨いて、スーツを着て、ビジネスバッグを持って会社に行く。途中のコンビニで煙草を2本吸う。満員電車に乗って、会社に着いて、朝の挨拶をして、夜まで仕事をする。また電車に乗って家まで帰って、途中のコンビニで弁当を買って、煙草を2本吸って、部屋の鍵を開けて…。

 今と変わらないじゃないか、何にも。嫌気がさしてきた。想像するのをやめにした。

 仕事終わりに安長さんに飲みに誘われた。特に断る理由もないので、行くことにした。会社近くのチェーン店の居酒屋で、二人は向き合って座った。オレンジ色の照明が、頭の上から差している。ぼくは生ビールと唐揚げ、それと枝豆と海鮮サラダを注文した。安長さんは他愛もない雑談をした後、ぼくに言った。

「永井は結婚しないのか?」
「今のところ、その予定はありませんね」
「彼女は?」
「いません。10年くらいいません」
「そうか」
「安長さんはどうなんですか?」
「俺は3年前に離婚してる」
「そうだったんですか、知りませんでした。すいません」
「いいの、いいの、相手に浮気されちゃってね、子供はいなかったから、別れる手続きが少し楽だった」

安長さんは笑った。少し陰のある笑い方だった。

「女性はこわいですね。ぼくも浮気されたことあります。まあぼくの場合は、学生時代のことで、結婚はしていませんでしたけど」

ビールのジョッキから雫が垂れた。バイト先の先輩に寝取られた、人生で初めてできた恋人の顔を思い出した。ここ3年くらい、プライベートで女性と二人ででかけたことがない。再び恋人が欲しい、誰かを愛したいと思うのに、あの時の記憶と苦痛が自らを責めたてる。心に受けた傷、その思ったよりの巨大さに戸惑い、打ちひしがれた。そんな10年だったと思う。

「そっか、ふとした時に寂しくなるんだよな。浮気されて別れたのに、今が何にもないと、すごく元奥さんが欲しくなる、愛おしくなる」
 
安長さんの目は虚空を見つめているようだった。

「わかります。昔の思い出に縋りつきたくなります。今のこの苦痛から助けて欲しいから」

安長さんが黙って頷いた。ぼくが大学生のころ、ぼくの初めてできた彼女は、ぼくの好きだったバイト先の先輩に寝取られた。ぼくはバイト先の近くのラブホテルへ、二人が入っていくのを見たし、そのホテルの入り口の前で、二人が熱く抱擁し長いキスを交わしているのも目撃した。別のバイト先の先輩から、二人ができていることも聞いた。あの中野の街の景色、飲屋街の明かり、21歳のぼく。ぼくは彼女から別れを切り出されるまで、彼女と付き合い続けた。そして別れ話をされたときも、ぼくは彼女を問い詰めることができなかった。ぼくは臆病だった。浮気を目撃して以来、彼女との関係は破綻しており、別れ話をされるまでの1ヶ月間、彼女とは全く会っていなかった。別れてすぐ、ぼくはバイトを辞めた。

 そんな最低の恋人でも、二人で過ごした思い出に、どうしても縋ってしまう時があった。ぼくは女にモテない。

「結局会話術とかセックスレスの解消法とか妻の扱い方とか夫の扱い方とか、モテる術とか引き寄せの法則とか、愛する技術とか、愛される女になるにはとか、そういうのは全部嘘なんですよ。だってそういうものをいくら学んだって、心の中のどうしようもないくらい大きな傷は、絶対に消えないんですから。そう思いませんか?」
「思うよ」

安長さんがもう一杯ビールを注文した。ぼくはそれに合わせてハイボールを注文した。店内は空いている。傷の治し方がわからない。

「俺は離婚した後、しばらくは放心状態だった。毎日感覚がなくて、生きているのか死んでいるのか、起きているのか寝ているのかわからなかった。飯の味もしなかった。永井は去年転職してうちへ来たから知らないだろうけど、体重だって落ちてしまって、今より10キロくらいスリムだった」

安長さんが自分の腹を叩きながら、微笑んで言った。

「そんな放心状態がしばらく続いた後、俺は急に酒が飲みたくなった。毎日毎日、仕事から帰ってくるとろくに飯も食わないで酒ばかり飲んでいた。元妻との楽しかった思い出が頭に浮かんでくる、それが堪らなく辛くて、その思い出を消すために俺は酒を飲んだんだ。アルコールで頭が痺れてきて、そのまま気絶するように眠る。でも朝になるとまた元妻の顔が浮かんでくるんだ。それはそれは辛い日々だった。今、アルコール依存症の診断を受けていないのが奇跡だよ」

そう言うと安長さんは新しいビールに口をつけた。そして再び言った。

「元妻は今再婚して子供がいる」

ぼくたちの間に沈黙が垂れこめた。薄い膜のような憂鬱と悲しみが、ぼくらの両肩に降りてきた。愛の喪失、ぼくたち2人は敗残者なのかもしれない。深くて暗い森の中に迷い込んだようだった。月明かりも差さない真っ暗な森。ざわざわと木々が不気味に鳴る。今よりちょっとだけ幸せになりたいだけなのに、どうしてだろう?どうして天はぼくたちから奪い、暗い淵まで追いやるのだろうか?幸せは奪い取るものなのだろうか?

 安長さんは黙ってビールを飲んでいた。ぼくたちはその日この会話以降、大して言葉を交わすことなく別れた。帰り道に光るネオンが、とてもいやらしく見えた。愛を失った後、ぼくらはどうやって生きればよいのだろうか?

 世の中のシステムは、幸福な人のためにしか作られていない。幸福な人はより幸福に、そうでない人は…。

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