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『一庶民の感想』 18 無価値な自分へ

 疲れてしまった。自分で自分の機嫌をとり続けることに。自分で自分を慰め続けることに。自分で自分を励まし続けることに。自分と自分で話し続けることに。

 自立、自律、依存しないこと、共存、共助、甘え、快楽、マスターベーション、セックス、気持ちの悪い30歳を越えた自分の視線、仕事、歯車、機械的に生きること、夢、希望、ドブ、裏切り、幸せ、家族、政治、経済、漫画、木漏れ日、雨、スタイル、服装、妄想…。

 どうやら自立した個人に、自立した個人がくっつくというのは嘘だったらしい。この世に完全な自立など存在しないのだから。誰かと一緒になった途端、自立の度合いが低まるのだから。

 ぼくらがやってきたのは自立への道ではなくて、孤独への傾斜らしい。つまり、無駄だったのだ。自立を目指し続けたぼくらの年月は、全部無駄だった。自立は存在しない。あるのは孤独だけだ。目標にしていたオアシスは実は廃墟だったのだ。笑える、笑える、笑える。夢とは幻想の言い換えか。

 廃墟からの引き返し方がわからない。もうあまりにも深くまで入り込んでしまった。朽ちた石壁と家々、かつて集会所であっただろう円形のドーム、半分壊れて倒壊した大きな門、枯れた用水路。廃墟に差す木漏れ日の中で、ぼくはいつ消えてしまってもよいと感じる。打ち捨てられた、訪れる者も、覚えている者もないこの廃墟で、人知れず消えてなくなること。それはとても幸せなことだろうと、ぼくにはそう感じられる。振り返っても、前を見ても、左右を見ても、どこまでも廃墟が続いている。人間の失われたすべての命と文明、文化、生活の堆積。その中で砂のように消えてなくなること。風に吹かれてぼくという粒子が、廃墟の一部となること。名前も存在も夢も希望も悪夢もすべてが消えてなくなること。

 自分自身が無価値であるということ。このことのなんと楽しく、嬉しいことであろうか。全くの無価値、役立たず、不具、欠落と喪失の塊、自分自身がそんなような存在であると認めたとき、ぼくの今までの短い歴史の全てに合点がゆく。無価値であるが故の孤独、無価値であるが故に愛を失い、無価値であるが故に自らが不快だ。無価値であるが故の数多の失敗、無価値であるが故の偏狭、無価値であるが故の現状。嗚呼、何たる愉悦か。自らが無価値であることを受け入れ、認めることの、何たる快感か。

 殊更男は無価値である。そして私は男である。

 信じてきたものが虚構であるとわかったときのあの感覚。あの笑いが込み上げてきて、愉快で、無価値で、何の意味もないことに人生の大半を費やしてしまったという徒労、自らの愚かさの自覚、自らの孤独の自覚、それら全てがないまぜになったあの独特の感覚。ぼくは今それを味わっている。祈る言葉も見当たらない。

 そうだ、ぼくに価値なんて最初からなかったんだ。ぼくは生まれたときから無価値だったんだ。それを忘れていただけだ。それを認めたくなくて、子供のように騒いでいただけだ。

 もう忘れないぞ。廃墟が教えてくれた。ぼくは無価値だ。

 だから消えてなくなることが唯一の成功なのだ。何もできなかったぼくが唯一成し得ること。

 完全なる消滅。

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