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短編小説 『だめになっちゃったんだな』

 いつものように着替えて、いつものように家を出る。会社に行って働いて、うちへ帰ってきて、夕飯を食べて、眠りにつく。このサイクルを週六日繰り返す。休日は木曜日の一日、祝日も基本的に仕事だ。たまに友達と飲みに行く。チェーン店の居酒屋で、五千円くらいで飲み食いする。飲みに行く友だちは年々減ってきた。昔からの友人は、結婚したり子供が産まれたりしたからだ。今ではぼくの周りに残っているのは二、三人くらいのものだ。みんな独身。ぼくも含めてみな、恋人もいない。二十代のころはよく女の話をした。酒を飲みながら、あることないこと勝手気ままに話し合った。まだ希望があったのだ。三十代になってから、女の話をすることが減った。長く独り身のぼくたちが集まると、きまってするのは昔の話だ。学生時代の思い出話。噺家も驚くくらい、何度も何度も同じ話をしている。女の話は避けている。お互いに顔を見たらわかるからだ。

 三十歳を越えてから、さびしさが増した。仕事や買い物などで外を歩いていると、同年代か自分より若い夫婦、カップルが目に付く。ベビーカーを押している人たちもいる。特に土曜日曜、祝日はこれらの人々がたくさん目に入る。彼ら彼女らを見るとぼくは、顔を伏せてしまう。あるいはじっと見入ってしまう。どちらも同じことだ。嫉妬と羨望と、自らの孤独の混合物。家族や結婚などに関する映画、CM、テレビ、漫画、本なども、なんとなく避けるようになった。見ていると胸が痛むからだ。ズキズキとじゅくじゅくと、胸の奥が痛む。

 さびしさが胸を刺す。たまに風俗に行く。風俗嬢の女の子と長い間おしゃべりをする。三十代になってから、プレイ時間よりも話す時間の方が増えた。思いがけず、たくさん話してしまう。自分のこと、仕事のこと、昔のこと、相手のこと、相手の趣味について、最近あった面白い話。風俗嬢以外の女性とこんなに長く話す機会はない。ふとした瞬間に考える、最後に女性と二人で出かけたのはいつのことだったろうか?数年前だ。そのとき一緒に出かけた相手は、とうの昔に結婚して、一児の母になっている。

 仕事を終えて夕食をとった後、夜中までだらだら過ごす。昔は情熱があった。将来の展望、野望、やりたいこと、それらのために努力もした。社長になりたかった、裁判官になりたかった、彼女をつくって一緒にクリスマスを過ごしたかった。そういうありふれた情熱。しかし、すべてに挫折した。ぼくは現実の厳しさと自分に負けたのだ。敗北感が身体中を這い回る。力がなくなり、無気力になった。今のぼくはただ目の前の仕事をこなすだけの機械だ。今のぼくはただスマートフォンを見るだけの機械だ。夜眠る前にそう思う。朝起きて、ベッドに仰向けのまま、天井を見つめる。白いクロス貼りの天井が妙に押し迫って見える。スーツに着替えて、朝食をとって、洗顔をして歯を磨いて、電車に乗る。もう何年も前に読まなくなった日経新聞を、電車で隣り合わせた中年男性が読んでいる。世の中で起こることに関心がなくなったのは、いつのことだったろうか。自分が今生きていることに現実感がなかった。薄い膜が自分と外の世界の間にある、そんな気がした。街中で好みの女性を見ても、ほとんど何も感じなくなった。好意なんか感じても何の意味もない。自分には何も変えられない。自分からは何の影響も及ぼすことができない。そういう形の無力感が、自分の中を支配する。だから目を伏せる。

 パソコンをカタカタ打って、意味のない会話をして、なんとか仕事を乗り切る。最近は性欲も湧かない。酒を飲む気にもならない。行きとは逆の電車に乗って、狭いアパートの一室に帰り着く。眠りにつくまでの間、だらだらと過ごす。見た瞬間から忘れてしまうネットニュース、内容のないショート動画、どれもこれも退屈だ。いや、無駄だ。何をしていても面白くない。そんな感情が胸を満たす。隣の部屋からベッドの軋む音が聞こえる。微かな喘ぎ声もする。イヤホンを耳に入れて、音楽で耳を塞ぐ。

 現実が迫ってくる。いや、これが現実だと、いい加減この歳になると、嫌でも気がついてしまう。幼い頃、中学生高校生の頃、二十代の頃、夢見ていた、想像していた、甘くて希望に溢れていて、笑顔があって、温かくて、そんな未来は、場所は、どこにもないと気がついてしまった。

 ぼくはだめになってしまったんだな。

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