『一庶民の感想』 13 孤独とともに生きる
作家の中村うさぎさんが出演されている、インターネット番組を見た。その番組の中で中村さんはおっしゃっていた。
「孤独を解消するための結婚は、必ず失敗するわよ」
中村さんの実体験からでた言葉だ。恋愛にも同様のことが言えるだろう。ぼくの拙い経験から考えても、同意する。さて、中村さんは同じ番組の中でこうもおっしゃっていた。
「恋愛の99%は幻想でできている」
まさにそうだろう。若いときの自分の幼い恋愛を思い出してみればわかる。夢と期待がいっぱいに詰まったあの幻想が破れるとき、あの弾け飛ぶ瞬間とその後の現実認識が、ぼくたちを虚無へと叩き落とす。そして長い時間の煩悶の末、現実を知るのだ。現実を知ったとき、ぼくらの幼過ぎる青春は終わる。
孤独はいつまでだって、どこへだってついてくる。一人でいても二人でいても子どもといても友達といても、ついてくる。孤独は生涯消えない。それは自分自身に与えられた個性であり、才覚なのかもしれない。何をしても消えない離れない孤独ならば、覚悟を決めてともに生きるしかあるまい。孤独は牢獄だが、その檻は時に自らを守ってくれる。孤独という防壁、孤独には外敵から自分を守るというそんな機能もある。
自分の中に孤独があると気がついてしまったとき、孤独は生涯の伴侶となる。結婚しているとか、恋人がいるとか、友達がいないとか、身内がいないとか、そういう外部要因は関係がない。孤独というのは自分と自分の中にある他者の入ってこられないところ、その場所との関係性である。つまり孤独とは、自分の中に自分だけの場所があると気付くことなのだ。その場所をぼくは音楽や絵画、草花や本、漫画、映画、思い出などで飾る。そしてそこは自分自身の安らう場となる。
あまりにも自分自身の孤独にこもりきりになっていると、社交性を失う、息苦しくなる。だからぼくらは外へ出る、外部世界へ目を向ける。
自分自身の孤独はいつでも自分自身が帰るのを待っている。そういう意味で、内的孤独は存在する。
社会人になって数年もすると、周りの人々(友人や家族)が変わってゆく姿を目の当たりにする。結婚や転職にともなうライフスタイルの変化だ。結婚し子供ができれば、昔のように遊べなくなる。飲みに誘うのも気が引け、夜な夜な会って様々なことを語り明かすなんてこともなくなる。こちらとしても家族を大事にして欲しい。しかし、親友と呼べるような親密な関係の友人と、疎遠になるのは寂しいものだ。そんなとき、内的孤独は深まる。20代後半くらいになると、もうほとんど新しい友人もできない。仕事も忙しくなり、たまの休日は寝てるだけだし、平日の夜は隙間を縫っての勉強に時を費やす。20歳のころに考えていた30歳と、実際に訪れた30歳はまるで違っていて、そのギャップに笑いが込み上げてくる。笑っちゃうくらい孤独なのだ。恋人もいない、できないし、長年の友人とも疎遠になってゆく、ただひたすら仕事を繰り返し、仕事のための勉強を周回する。そんな自分に、このループから抜け出せない自分に、夜中一人苛立つ。苛立ってみたところで仕様がない、自分で選んだんだか、無意識に誰かに選ばされたのかわからない今生という時間の一部分において、ぼくはこの有様なのだ。少し先の未来も今と全くおんなじことをやっていて、おんなじように文句を言っているようでため息がでる。青春らしい思い出のない青春が終わり、その青春が終わった後にぼくに訪れたのは、新しい青春でも、ラブロマンスでも、結婚でもなくて単なる孤独だった、そういう話だ。
予測と外れるなんて、よくある話だ。いやそもそも予測とは外れるものなのかもしれない。想像とは裏腹に、長じるにつれて孤独が深まってゆくのも、ぼくの想像が甘かっただけで、案外人間の生とはそういうものなのかもしれない。本も音楽も漫画も映画も、普通の人より多くそれらを享受している人は、内面に孤独を抱えている人だ、ぼくはそう思う。ましてや文章や映像、なんらかの芸術作品を作っている人は尚更だ。作品を良く見ようとするとき、作品を作ろうとするとき、人は必ず一人だ。グループワークは芸術的営為ではなく、ビジネスだ。深い発想と直感は、ワイワイガヤガヤからは生まれない。
だが、深い発想や直感があったからといって、それが何になるのだろうか?
幸福を追い求めることで幸福でなくなる、そういうことはありうる。禅の教えのように、あらゆる欲望を消し去り、幸福への執着を捨てられれば、ぼくたちは幸福になれるのだろうか?そもそも、幸せな状態とはどういう状態のことを指すのだろうか?楽しくて、楽しくて仕方がない状態だろうか?興奮している状態だろうか?何かに夢中になって、没頭して、己を忘れている状態だろうか?上記の状態が幸福であるとするならば、それ以外の状態のときは何というのだろうか?また、幸福への執着を捨てたときはじめて幸福になれるとするならば、捨てた後に残った幸福を感じ取ることが、認識することが果たして本当にできるのだろうか?
話が大分それてしまった。これも孤独の効用だろう。一人だと余計なことをぐるぐる考える。答えの出ない問いをぐるぐるぐるぐる。嗚呼、自分はなんてめんどくさい人間なんだ、そう慨嘆する。もしかしたら、あまりにもめんどくさい人間であるため、いつまでたっても一人なのかもしれない。その可能性は大いにある。
さて、ぼくの伴侶は孤独だ。孤独よ、これからもどうかよろしくね。一生一緒だよ♡
嗚呼、心の中で結婚式をあげようか。タダだし、招待状も送らなくて良いから楽でいい。それにしても何だろう、モテない青少年が歳をとって、モテなくて余計めんどくさくなったおじさんになるなんて、タチの悪さがアップグレードしてる。どうしようもねえな、誰だよ30歳から楽しくなるよなんて言ったのは、怒り心頭に発します。
このまま拗れに拗れたら、おじいさんになったとき、珍しい盆栽みたいに珍重されるのかな、そんなことを考える孤独な私の一日であった。
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