『一庶民の感想』17 社会という牢獄
全くもって嫌な時代である。先日も17歳の少女が、21歳と19歳の若い女性に殺されたというニュースがあった。一昔前までは、若年層の犯罪、殺人は珍しいものだったが、今や当たり前だ。10代、20代の若者、少年少女が人を殺し、物を盗る、春を売る。時代は閉塞し、年々窮屈に息苦しく、もはや窒息寸前まで追い込まれている。
社会そのものが大きな牢獄と化している。しかも、段々と四壁の迫り来る牢獄だ。経済思想としていえばそれは、新自由主義の帰結である。国家が過度の自由化と市場の開放、小さな政府を推し進めた結果、社会は経済的利益を奪い合う、万人の万人による闘争状態となった。自由至上主義の影響で、各種共同体が破壊され、お互いを支え合い、親密な人間関係を構築する場が失われた。公共性や思いやりを担保し育む場が失われたので、他者は自分から奪うだけの敵と成り下がった。その皺寄せは家庭にも広がる。家庭の外は全て自らを害し、激しい競争をする場となってしまったので、家庭がそれらから逃れられる唯一の場所となった。家庭の外で蓄えられた不満や怒りは、唯一心を許せる家庭の中の人々へと放出される。本来は社会や共同体という家庭外のものと共同で担われていた、不満の受け皿という機能が、一家庭という閉鎖された空間へと一元化された。その結果、家庭は地獄と化す。受け止めきれなくなった不満や憤怒が、暴力や暴言となって噴出する。かくして家庭も崩壊する。離婚率の増加も自然な話だと思われる。また近年聞かれるようになった毒親、親ガチャという言葉も、説明がつく。唯一の心許せる場である家庭が、親の性格や言動によって生まれたときから機能していなければ、その者の安らぎの場は最初からないのである。生まれながらに地獄である。
始末が悪いのはこの傾向を国家が助長していることだ。官僚、政治家、それと癒着する事業家の類は、詭弁を弄し自らと自らを支持する団体に有利なような構造をつくりだす。法律はその本来の意味(各種団体や国家、国民等の利益分布の平衡をとること。人間の行き過ぎた欲望に規制をかけること)を失い、欲望を叶え、都合の悪いことを隠蔽する装置となった。政治家はファッションとイメージで選ばれ、その内実は不問に付される。国家は相対的に弱い立場にいる国民の声を無視し、重税を取り立てる。国家やそれと癒着するものたちに対して批判を加えようものなら、司法、警察、検察、マスメディアも巻き込んで、全体主義を構成し徹底的に弾圧する。汚職政治家は免罪され、腐敗企業家は逃亡する。社会から倫理と規範が失われ、人類が何千年にも渡って培ってきた遺産、良き伝統、文化、良き習慣は無視され、破壊される。社会はこのようにしても人々を圧殺する。
巨大な牢獄と化した社会が、極限まで狭まり、人間をこれ以上押し潰さないくらいまでになったら、人間は、社会は、世界はどうなってしまうのだろうか?息苦しさが限界を迎えたら?
圧縮された空間はとてつもないエネルギーを秘めている。早晩日本だけでなく、世界にも大転換が起こるであろう。日本と同様に各国もそれぞれのペースで統制の度合いを強めているからだ。
来るべき大転換とその先へ向けて、我々は何ができるのか?どうあればよいのか?
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