小説 『長い坂』 第八話
平成のヒットソングをイヤホンで聴いていた。宇多田ヒカル、安室奈美恵、Mr.Children、槇原敬之、ZARD、木村カエラ、aiko、GLAY、L'Arc〜en〜Ciel…。子どもの頃に聴いた曲、小学生、中学生、高校生の時に聴いた曲、それらほどよく耳に残っている。懐かしい。アンダーグラフ『ツバサ』、チャットモンチー『シャングリラ』。
イヤホンをとってテーブルの上にあるコップを手に持ち、中にある水を胃に流し込んだ。ぼくは緊張していた。ここが自分の家ではないからだ。
心の中で繰り返し流れるメロディ、その懐かしさと緊張が相まってぼくの手は震えた。ここは会社の後輩、桜井彩音の暮らすワンルームマンションだ。ベッドの横に置かれた背の低いテーブルの上に、麦茶の入ったコップが二つ。桜井は今トイレに行っている。ぼくは麦茶を飲み干した。女性の部屋に入るなんて、十年ぶりだった。独特の匂いがする。若い女性特有の甘いような柔らかいような、そんな香りが。何故か学生時代の恋人のことを思い出した。柔らかい若い葉っぱのような香りと肌触り。頭を振って、邪心を消した。ぼくはもういい大人で、おじさんの部類に入る歳だ。こんなことを考えるなんて、気持ちが悪い。
「お待たせしました」
桜井がワイシャツ姿のまま現れた。今日は会社の飲み会だった。夏休み前の打ち上げということで、部署の人達としこたま酒を飲んだ。場所は会社の連中がよく行く、会社近くの居酒屋だった。
「送っていただいて、ありがとうございます」
桜井が笑顔で言った。
「気分はどう?」
「はい、だいぶ良くなりました」
いつになく桜井は酒を飲んだ。周りが心配になるくらいハイペースでジョッキを空け、お開きになるころには千鳥足でふらふらだった。上司に言われてぼくが彼女を家まで送ることになった。タクシーを捕まえて、桜井を乗せ、運転手に桜井から聞いた桜井の部屋の場所を告げた。10分ほどで築浅のマンションについた。料金を払い、202号室まで桜井に肩を貸しながら向かった。
「珍しく飲んでたじゃない」
「ええ、まあ、色々ありまして」
桜井が麦茶を飲んだ。薄い唇が白くなっている。まだ気分がすぐれないのかもしれない。暫しの沈黙。
「じゃあ、もう帰るわ」
「ええ?ああ、はい、わかりました。タクシー代払います」
桜井が慌てた様子で言った。
「いいよ、大した額じゃないし。ぼくはここから歩いて帰れるから」
「でも…」
「いいって」
「……」
「色々あったんでしょ?」
「…ありがとうございます」
そう言って彼女は頭を下げた。ぼくはビジネスバッグを持って玄関に向かった。
「昨日、彼氏と喧嘩しちゃって…」
ぼくの背中に桜井が声をかけた。振り向く。
「結婚したいって言ったら、まだ待ってくれって。でも私もう28だし、彼も32なんですよ」
「そうなんだ」
ぼくはなるべくゆっくりと答えた。
「世間では色々言うけど、やっぱり30歳を越えると結婚し辛くなるし、私は結婚したいし、今の彼とは3年付き合ってるんです。でも彼、何で今は結婚したくないのって聞いても、気分じゃないとか、お金がないとか、なんかとってつけたような言い方して、逃げ回ってばっかりで」
桜井の目に涙が溜まってきた。
「私、これ逃したら次チャンスいつ来るかわからないし」
ぼくは彼女の話を聞いていた。
「それで喧嘩になっちゃったんです。私が結婚について問いただすと、最後にはその話は聞きたくないって」
「怒鳴られた」
「そうです」
桜井の顔色に少し赤味が戻ってきたようだ。興奮してしゃべったからだろう、少し息もあがっている。
「私、どうしたらいいんでしょうか?」
「申し訳ないけど、ぼくにはわからないよ」
「そうですよね、すいません、こんな話しちゃって」
右手で目元を拭うと、桜井は笑顔をつくった。
「ありがとうございました。おやすみなさい」
「おやすみ」
そう言ってぼくは外へ出た。
アスファルトを月明かりが照らしていた。湿った風が肩に吹きかかる。じっとりとした気温の高い夜だった。タクシーを拾いに大通りまででた。手を挙げてタクシーを止め、乗り込み、行き先を告げた。初老の運転手は黙って車を運転した。
そう、これだからぼくはだめなんだ。これだからぼくはモテないのだ。桜井に優しい言葉の一つもかけてあげられなかった。彼氏がいるのにぼくが桜井の部屋に長くいてはいけない、その考えの方を気にしてしまった。ぼくはいくじなしだ。ずっと前からそうだ。肝心なところで小さな倫理観に縛られて逃げ出してしまう。
ため息を一つ吐いた。三十数年生きてきて、ぼくは何も変わっていない。ぼくの本質は臆病なままだ。窓外の景色を見た。深夜の道路工事が行われている。橙と赤のランプが点滅している。エアコンの効いた車内は静かだった。アスファルトを砕く重機の音がよく聞こえた。再びぼくはため息を吐いた。運転手がちらりとミラーでぼくの方を見た。ぼくはもう一度ため息をついた。タクシーが静かに発車した。
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