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うっかり警視庁を退職しました

すずめの略歴

 令和も2年目となりました。

 新型コロナウイルスの流行や自然災害の発生で令和ちゃんも慣れない中で大変なことと思います。

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 9月の後半になり、ようやく秋らしさが感じられるようになった折も折、私こと吉川すずめは令和2年9月30日付けをもって警視庁を退職いたしました。

 正確には、警視総監から辞職を承認する旨の辞職辞令を受け、退職が認められたという形です。

 昭和58年3月16日、高校の卒業式から2日後くらいだったと記憶しています。18歳のすずめ少年は身体に合っていないスーツ姿で中野にある警察学校の門をくぐりました。

 以来、37年と約6か月間、警察官一筋でがむしゃらに走り抜けてきました。

 そもそも、なぜ私は警視庁に入庁したのでしょうか。

 出身地である茨城県警の採用試験に落ちたからです。

 高卒で就職したわけですが、これもいわく付きでした。

 私が在籍していた高校は県内でも有数の進学校でした。

 例年、全員が進学を希望して現役で大学に進学するか、現役合格が叶わなかった人は浪人して大学を目指すのが「当たり前」というところです。

 そんな中で私だけ就職という選択をしました。

 その理由は「もう勉強したくないから」という逃避でした。

 思えばこの逃避のせいで就職してから余計な苦労をすることになるわけですが、当時はとにかく勉強したくなくて一刻も早く就職してしまいたかったのです。

 当然、その年度に就職したのは私だけ。

 進路一覧にも掲載してもらえない、黒く塗りつぶされた歴史となりました。

 話を戻します。

 なぜ茨城県警を落ちたのか。

 一次の学科試験は当然合格です。

 二次試験は、身体検査と面接を受けました。

 この面接に罠が仕掛けられていたのです。

 私は、人の言葉の裏を読んだり駆け引きをすることが苦手です。

 言われたことはそのまま受取り、そこに他の意図が込められているとは思わない傾向があります。

 茨城県警の面接を受けたときは、すでに警視庁の合格をもらっている状態でした。

 そこで県警の面接官が次のような質問を投げてきました。

「君は警視庁にも合格しているんだね。もし、茨城県警を落ちたらどうするんだい?」

 言葉の裏を読めないすずめ少年は、問われたことに真っ直ぐ答えました。

「そうなれば警視庁に行くしかないと思います」

 この答えが大人の世界ではNGワードだったのです。

 後に警視庁の昇任試験対策で指導を受けて知ることになるのですが、面接というのは本音を交わす場ではないらしいのです。

 たとえ嘘でも意気込みややる気を示さなければならないのだそうです。

 県警の面接でいえば

「そのときは来年もう一度受験して、なんとしてでも茨城県警の警察官になります!」

くらいの嘘を平気でつけなければいけなかったのです。

 そんなつもりがあったら警視庁を受験しているわけないのにも関わらず、です。

 さて、警視庁の警察官になったすずめ少年は快進撃を始めます。

 初任科では、場長などの役員に任命されなかったため凡庸な成績でした。

 警察学校を卒業して半年後くらいに現任補修科に入ります。(今は呼び方もカリキュラムも変わっています)

 現任補修科では勉強を頑張って優等賞をいただくことができました。

 警察の優等賞というのは、学校教養などで上位1割に入る成績を修めるともらうことができるものです。(その後、関東管区警察学校では都合3回ほど優等賞をいただきました。えへん)

 現任補修科を終えて少ししたことろで「中央大学通信教育派遣学生の募集」というお触れが回ってきました。

 通信教育は、基本的に自学自習でレポートの提出と試験で単位を取得するものですが、スクーリングという通学で取らなければならない単位があります。

 普通であれば自分の休みを使って通学しなければなりません。

 しかし、この通信教育派遣学生に選ばれると、夏のスクーリングに勤務で行かせてもらうことができます。

 勉強したくなくて就職したすずめ巡査(めでたく成人しました)は、なにを思ったのかこれに応募してしまいます。

 そして、幸運にもこれに選ばれ、警察学校卒業のちょうど1年後の4月から晴れて大学生としての生活を始めます。

 実は、この通信教育ですが、非常に卒業率が低いことで有名なのだそうです。おそらく入学者の7~8%くらいしか卒業できていないと思います。

 しかも、私が入学した当時は、刑事訴訟法に渥美東洋先生が教授として在籍していらっしゃいました。

 渥美先生の刑事訴訟法は、レポートの採点にも容赦がなく、もう合格するのは無理なんじゃないかと思えるほど不合格を重ねて、ようやく及第点をもらえるような有様でした。

 そんなこんなで4年半をかけ、時代も昭和から平成になった1990年(平成2年ですか)に中央大学を卒業しました。

 中央大学の通信教育を4年半で卒業するのは、とてもとても難しいことです。これは自分でもよくやったと誇りにしています。

 実は、中央大学を卒業したその年、すずめ巡査は巡査部長に昇任していました。目の前に目標がふたつあればどちらも達成するのです。

 2兎を追わなきゃ2兎は得ず。追っても得られないかもしれませんが、追わないことには絶対に得ることができないのです。追えるなら追ってみても損はありません。

 巡査部長昇任試験は2回目での合格です。

 1回目も最終試験である面接まで進みましたが、面接官から「君は若くて優秀なようだね、また来年頑張って」と引導を渡され不合格でした。

 巡査部長に昇任した年に大学を卒業して、高卒から大卒の資格に切り替えることができました。(学歴ロンダリング)

 高卒ですと巡査部長から警部補への昇任試験を受けるのに、最低でも3年の実務経験が必要となります。ところが、大卒はこれが1年という短期間で受験資格を得ることができるのです。

 ということで、巡査部長に昇任したと同時に大卒になったすずめ巡査部長は、翌年に警部補への昇任試験を受けることができるようになりました。

 このとき、すずめ巡査部長25歳。

 翌年、順調に試験を進めたすずめ巡査部長は「よーし、一発合格だな」と高をくくっていたところ、またもや三次試験で不合格となりがっくりと肩を落とすのでした。

 その翌年は無事合格を勝ち取り、晴れて警部補に昇任することができました。

 27歳の警部補が誕生しました。おめでとう!

 たぶん最年少の警部補だったと思います。

 こりゃあ将来は部長か警察学校長は楽勝だな、と明るい未来を夢見るすずめ警部補でした。

 そんなこんなで29歳にして警視庁本部に異動となるものの、あれやこれやあって警部補を15年ほどやってしまい失速します。

 ようやく43歳で警部に昇任しました。

 現実は甘くないのです。

退職

 その後、いろいろあって管理職にもなれないまま56歳で退職と相成りました。

 現実は甘くないどころか苦々しかったです。

 「あれやこれや」と「いろいろあって」の部分が関心を集めるのだろうと思いますが、そこを書き始めると退職エントリではなく日経新聞に連載されている「私の履歴書」になってしまいますので、いずれ機会があれば書いてみようかと思います。

長生きしたい

 さて、肝心の退職の理由ですが、いたってシンプルです。

 夜勤が眠くて辛いから。

 夜は寝るものです。夜寝ないのは身体によくない。早死にします。

 長生きするために退職しました。

前に進むために職を辞する

 もうひとつの理由を挙げるとすれば。

 やれること、やりたいこと、私にしかできないこと、これらがあってもそれが叶わないのであれば、この組織にいる理由がない。

 このまま窓際で定年を待つのは税金泥棒に等しい。

 この仕事内容でこの俸給はもらいすぎだとも感じていました。

 自分がやりたいことをやるには外に出るのがいい。

 一旦は年収を下げることになるでしょう。

 しかし、前職以上の年収を自分の力で稼いでみせる。

 そう思ったからです。

 失望や失意からの退職ではありません。

 新しいことを始めるために錆び付いたキャリアを終わらせただけです。

 とはいえ、定年まで勤め上げられなかった無念はあります。

 その無念は、これからの自分が晴らします。

名称未設定のアートワーク 70

転職活動の巻

 というわけで、昨年11月に転職を決意して職探しを開始しました。

 私の第一希望は、舞浜にある夢の国で働くことでした。

 オリエンタルランドの中途採用に応募しましたが、書類選考で撃沈。

 次に応募したのが某超大手ベンチャー企業の情報セキュリティ担当でした。

 その企業は、通常二次の役員面接で採用の可否が決まるところでした。

 書類選考を通過し、首尾良く二次面接まで進むことができ、内定獲得に望みがかかります。

 ところが、内定通知ではなく通常行われない三次面接実施の知らせが届きました。なにやら経営企画室の業務も兼務して欲しいという申し出でした。

 普通は二次面接で決まるところ、イレギュラーな三次面接まで行われるとなれば否応なしに内定の期待は高まります。

 ところが蓋を開けてみれば「お祈り」という結果でした。

 あの三次面接はなんのためだったのでしょうか……

 ここで一旦は心が折れかかります。

 しかし、一度転職すると決めてしまうと現職に対するモチベーションが著しく低下してしまうのは避けられません。

 やはり転職しよう。そう決めて活動を再開しました。

 転職エージェントにも「中高年の転職活動は長期戦になる」と言われていたこともあり、じっくりと腰を据えて転職活動に取組みました。

 期間にして半年以上、数え切れないお祈りメールを受取りながら、ようやく7月に一社から内定をいただくことができました。

 10月1日から株式会社ゼクトの経営企画室長として勤務する運びとなりました。

 私は、自分が苦しいときに拾ってくれた人の恩には必ず報いるという気持ちで仕事をしてきました。

 必ずや会社の成長に貢献するとお約束します。

【追伸】 

 転職に関して現職警察官の方に三つほどアドバイスをしておきたいと思います。

「転職するなら40歳までに動いてください。それ以降の転職は修羅の道です」

「民間企業で渡り合えるだけのスキルやキャリアがないと思うなら石にかじりついてでも定年まで勤め上げた方が自分のためです」

「そのためにも故意による不祥事は起こさないでください」

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