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前田慶次郎と巴淵 長村祥知

木曾義仲の妻で、義仲ともに武器を取り戦場を駆け抜けた女武者としてよく知られる巴御前。
彼女の実像とは、果たしてどうであったのか。『花の慶次』で著名な戦国武将・前田慶次郎の旅日記中の、長野県木曾地域にある「巴淵」の記述をもとに彼女の語られ方を探ります。

 このたび『対決の東国史1源頼朝と木曾義仲』(吉川弘文館)を刊行することとなった。原稿の提出が遅れたために、刊行をお待たせしたことをまずはお詫び申し上げたい。

 筆者も時代考証を担当した2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放映される前から、書名に「源頼朝」(初代の鎌倉殿)を含む書籍は多数刊行されていたが、「木曾義仲」を含む書籍はずいぶん少ない。書籍だけではなく、実在の義仲を政治史的に論じた研究論文も少数である。義仲が従来あまり研究されてこなかった理由の一つは、彼に関する古文書・古記録のような信頼度の高い史料が寿永2年(1183)7月の上洛以前は限られることであろう。

 ただし義仲は『平家物語』で頼朝以上に目立つ存在であり、文学的な作品読解に重要な人物という視角から扱われることは多い。

 『平家物語』に所見する義仲周辺の人物もまた魅力的な者が多く、筆者が研究を進めるなかで興味深い伝承をいくつか見出すことができた。例えば義仲の右筆ゆうひつとみえる大夫房覚明に関して、拙稿「木曾義仲と大夫房覚明」(『歴史の中の人物像』小径社、2019年)で清閑寺せいかんじ法花堂にあった大般若経を論じた。また拙稿「(第29番福勝寺№8)伝解脱上人筆切・添書」(『京都観音めぐり洛陽三十三所の寺宝』勉誠出版、2019年)では覚明を解脱げだつ上人貞慶じょうけいの叔父とする書付(これが事実なら覚明の父は信西しんぜいとなる)について触れたところである。

 本稿では、『平家物語』諸本において木曾義仲が寿永3年正月に近江国粟津あわづで最期を迎える前に生き別れたとされる女性、ともえに関わる伝承を記す史料を紹介したい。

 『前田慶次けいじ道中日記』は、冒頭に「謹書啓二郎/慶長六年孟冬、従二城州伏見里一、至二奥州米沢庄一道之日記」とある通り、前田慶次郎(慶次とも)が慶長6年(1601)冬に山城国伏見から陸奥国米沢に移動した際の旅日記で、自筆と判断されている。記主の前田慶次郎は、隆慶一郎の小説『一夢庵風流記』と同書を漫画化した原哲夫『花の慶次―雲のかなたに―』でよく知られる人物であろう。彼は11月1日に信濃国の野尻から宮越みやのこしに移動した日のことを次のように記す。

『前田慶次道中日記』5丁ウラ以下(市立米沢図書館所蔵。同館編『前田慶次道中日記資料編』米沢市教育委員会、2001年の影印・翻刻による。句読点と①②③は筆者が付した)
霜月朔日
野尻ヨリスハラ(須原)ヘ一里半、スハラヨリ荻原ニ二里、荻原ヨリ福ジマニ二里、福ジマヨリ宮越ヘ一里半、以上八里
……信濃路や木曽のかけ橋なにしおふとハこの事にやと、ねサメの床、トモヘかふちなと詠やる。①此渕は義中(ママ)のおもひものともゑといふ女房、此河泊のせいにて木曾義中に思ひをかけ、妻になりしゆへに、ともへか渕といへり。②又或イハ義中あハつにてうせにし時、ともえハおん田の八郎といふ武士を、義中のまのあたりにてうち、見参にいり、いとまかふて木曽に下り、此渕に身をなけしゆへに、巴かふちともいへり。③或イは義中に別れ、あハつの国分寺にて、物具ぬき、忍ひて東国に下りしを、和田小太郎義盛たつね出し、妻になしぬ。やかて浅井奈か母なりと云。是も物に記せり。たゝいにしへより巴か渕とハ、いふなるへし。談ハまち〳〵なり。ふくじまをも過、宮のこしに留。


 いまも長野県木曽郡木曽町日義ひよしの木曽川に巴淵ともえぶち(巴ヶ淵)と呼ばれる観光名所があるが、この史料によってその呼称が400年以上も前から存したことがわかる。

著書『源頼朝と木曾義仲』の書影


 ここには、巴を鍵とする3種の地名起源伝承①②③が記される。今のところ巴の存在は同時代史料に確認できないため、『平家物語』によって周知されたとみてよい。ただし、『平家物語』といっても覚一本かくいちぼん延慶本えんぎょうぼん・『源平盛衰記』などの諸本によって叙述の細部が異なるため、①②③についても一歩踏み込んで典拠を考えたい(以下でも触れる『平家物語』諸本の叙述の相違は、佐倉由泰「巴」『平家物語大事典』東京書籍、2010年が簡にして要を得ている)。

 まず①は、巴が義仲の思い者で、川の精が義仲の妻になったとする。覚一本『平家物語』巻9〔木曾最期〕では巴は義仲の「便女」(侍女、召使の女)であって、他の多くの諸本でも妻妾とは書かれていないが、『源平盛衰記』巻35は巴が義仲の乳母子で「妾」だったとする。川の精云々はこの地に固有の伝承であるが、思い者・妻という設定は、『源平盛衰記』から派生した巴=妻妾像であろう。

 ②では巴が「おん田の八郎」を討ち、木曽に逃れてこの淵に身を投げたとする。覚一本(龍谷大学図書館所蔵本。日本古典文学大系)巻9で、巴は、死を覚悟した義仲から生きて逃げるよう説得され、戦場から脱出する際に、鎌倉方軍勢の一人である武蔵武士「をん田」八郎師重もろしげの首をねじ切って捨てたとする。「をん田」は地名や他本で恩田・御田の表記があてられる。巴に首をねじ切られた武士を、『源平盛衰記』巻35は「遠江国住人内田三郎家吉」とし、『源平闘諍録』巻8上は「恩田七郎宗春」とする。②は『平家物語』諸本のなかでも覚一本などの流布本系の巴=剛力説話にこの淵の名称を接続させたものであろう。

 これら在地に伝わると思しき①②に対して、③は、義仲ゆかりの巴が信濃に落ち行かなかったという「物」の知識を披露して、『平家物語』の巴とは無関係の地名であろうという推定を記す。巴が和田義盛との間に朝比奈三郎義秀をもうけたとする話は『源平盛衰記』と『源平闘諍録』にみえるが、①の検討から、前田慶次郎は『源平盛衰記』に類する本文を想起したと判断される。

 ここで注意したいのは、「是も物に記せり」という記述で、ここから①②も物の本に記されているという認識がうかがえる。物の本とは、諸本の相違を有する『平家物語』と考えるのが穏当であろう。巴に関して様々に派生した「野談」の前提として、『平家物語』が複数の伝承を含み込んで並存する作品であることを前田慶次郎は理解していたと考えられるのである。本史料は、巴の在地伝承に加えて『平家物語』諸本の受容を考えるうえでもまことに興味深い。

 さて、現代でも、一般に流布する義仲の人物像に『平家物語』の影響は極めて大きい。少し古いが、不朽の名作マンガである手塚治虫『火の鳥乱世編』では、覚一本巻8〔猫間〕・〔法住寺ほうじゅうじ合戦〕の戯画的なまでに王朝制度に無知で粗暴な義仲像が継承されている。しかし、延慶本『平家物語』や『源平盛衰記』には京中守護や平家没官領の配分など政治史史料として注目すべき叙述が見出されるうえ、同時代史料からは義仲が八条院・後白河院の推戴を企図し、王朝官位秩序を理解していたと考えられる。

 冒頭に挙げた拙著では、源義朝と源義賢よしかた、頼朝と義仲という2世代を中心に、平家政権と東国武士の関係など、平安後期~内乱期の政治過程や構造的特徴をなるべく平易に叙述することを意図した。この趣旨から逸れる巴など伝承的性格の強い人物には言及を避けたが、同時代史料とそれを補完する延慶本・『源平盛衰記』の記述を採用したところは多い。著名でありながら取りあげられることの少なかった実在の人物の政治史を楽しんで頂けたら幸いである。

(ながむら よしとも・富山大学学術研究部人文科学系講師) 


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