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岩内 紅葉子

先日、たらこスパゲッティを食べながら…。
はて?岩内町のたらこのはじまりっていつ頃だったのか?と思いはじめた。

岩内町での、たらこのことを調べ始めたら、紅葉子にたどりついて。
北陸地方でも、使われているという表現で「紅葉子」という言葉の起源が岩内町だったということを知りました。

北海道におけるスケトウダラ延縄漁業発祥の地、岩内町

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紅葉子は、スケトウダラの卵巣(卵)の塩漬け。
紅葉の葉の紅色と似ていること、またマダラの卵と区別するために、紅葉子という名で販売されたという。
明治43年(1910年)頃には、すでにこの名称が使われていたといわれる。

スケトウダラの漁業は、江戸時代。
佐渡島(新潟県)で石見(島根県)から移住した漁民によりスケトウダラ延縄漁業が行われたことがはじめとされ、その後は越後・東北地方に広がりました。
元治元年(1864年)には、佐渡で、スケト漁を中心に鱈場争いが起こる。こともあったそうだ。

明治35年(1902年)北海道岩内の漁業家 増田庄吉が佐渡で延縄漁法を習得。
その翌年、岩内湾でたら漁中に偶然スケトウダラを釣り、その群れの存在を発見!!延縄漁具でスケトウダラ漁に成功しました。

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岩内町郷土館では、「スケソ漁の勃興」というコーナーがあります。

明治36年頃には、延縄38枚で800尾、翌19日40枚で2600尾の漁獲後に漁船1隻増えたというから、ニシン漁が衰退していく中で希望のスケトウダラ漁だったということが伺える。

この頃、たらこ(スケ子)は主に自家、地域利用されて、当時のスケトウダラの加工は、塩蔵・開き干し・スケ子・かまぼこ。が創られる様になった。

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明治38年(1905年)には、スケトウダラ漁 漁船が春季10隻・秋期60余隻と増加していった。

当時、冷蔵法がなかったので政府は輸出・外貨獲得のため、塩蔵を奨励し鮭・鱒・鱈・くじら・おっとせいの塩蔵には、塩の特配や破格な割戻しなどの優遇の道を図っていたがスケトウダラは受けられなかった。明治42年 塩専売法公布によって適用され、スケトウダラは正式に鱈類として認知されるようになった。

明治40年代は、漁獲量に比例し、たらこ(スケ子)生産も増減していく。

※現在(2021年)は、1隻です。

岩内町内の水産加工業者さんは、現在も受け継がれた加工技術で色々な商品開発をしています。

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岩内高校生とのコラボ商品。
カク一佐々木商店 の『バジルたらこ』は、洋風仕様になっています。

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岩内町内のお寿司屋さん(清寿司本店)では、岩内のたらこを使った「たらこ巻き」のメニューも!!

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おふくろの味ともいえる、「子和え」もレトルト仕様で販売している一八興業水産 さん。

そして「岩内の紅葉子」のことを調べる、きっかけになった。

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たら丸スパゲッティ!!!!
岩内町のマスコットキャラクター「たら丸」をイメージした、珈琲苑オリジナルメニュー。

岩内感が満載♡
岩内 紅葉子(たらこ)の歴史を振り返って、また食べたくなる一品でした。

#かなっぺの歴史散歩 



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