さけび さけび さけび

 私たちは日常の沼でひたすら増殖しつつある自らの声にもならない叫び声を懸命に抑圧しながら生きている。この途方もなく曖昧で不測な発酵しつつある内的意志から、外側の殻を保守する為に、欺いたり、威嚇したり、なだめたり、あらゆる手段(てだて)を強いている。自身の裡で叫び声はやがて確固たる狂気の円柱として峻立するだろう。その過程は最早、時間が差し示す距離を踏み外している。しかし現実の肉体として在る私は決して私自身を越境する事は出来ず、時間の矢も必ず堕ちるだろう。私はひたすら叫びの意志を育くみつつ、だがしかしついに現実の〈さけび〉は瞬間である。一回性であるという畏怖に制御されている。〈叫ばねばならぬ〉という衝迫と〈叫んではならぬ〉という圧迫が万力の両側面のように私を重たく挟み込み、あらゆる発想と意味の葛藤の渦に、たゆたう。私は熱望し恐怖し予感する。電話帳を調べ横断橋を渡り、他人に道を尋ねている。私の日常の動作の薄い膜を突破るようにして、吃水線を超える瞬時の〈さけび〉が私を引き裂くであろう、と。叫び声とは畏らく裂び声なのであって、それは引きチ切るような、つまり強姦されそうな衣服の焦操音ではなくて、あたかもスルメイカのそのように重たい直線なのだ。

 ジャニスは,〈歌手〉という職業を望むことによって自己の内面に秘む混濁とした狂気を表現する契機を与えられたが、それは、望む事によって、与えられた事によって、幸と不幸といった相対論の枠を超えて一つの確実な〈不幸〉を背負う事に他ならなかった。ジャニスは自らを裁断する自らの声に懸命に耐えていた。よく耐え得るほどにジャニスという女は強かった。あまりに強かった。強すぎた。だからジャニスの叫び声はますますラジカルにならざるを得なかった。ジャニスの声は決して〈野獣のように吠えている〉のではない。何か対称があってそれに向かってコミュニケーションしたいが為に叫んでいるのではない。呼んでいるのではないのだ。ジョンが虚空(ヨーコ)に向けて一生懸命に呼んでいるものを、ジャニスは希求し、それ以上に本能的なまでに絶望していた。その声は自分の内側へ向うしかなかった。

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3,358字

橘川幸夫の過去の原稿などをまとめていきます。

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