無題 塚脇 功

<ロックとは何か?>を問う力量も問題意識も欠けている僕は<何故ロックか?>を問う事になる。何故ロックであってジャズではないのか。何故エリック・クラプトンであってマニタス・デ・プラタではないのか。時代の圧倒的な奔流の中で僕はロックという偶然性に身を委ねたのに過ぎないのであろうか。
 ロックには風景が必要である。あるいは僕にとってのロックとは音を含めて風景そのものであったのかも知れない。音楽とは時間の流れの中に虚構を創り出す意思でありロックとは暴力的に僕たちの裡に流れる時間の川を遮断してしまう物理的音楽であった。しかしミエミエの<暴力>に素直にのり切れない僕にはもうひとつ空間的虚構が必要であったのだ。しかしその虚構も亦ミエミエである事はハナから納得していたのだが僕はとりあえず惚れた。僕と同様に時間的虚構をロックに求めながら場的虚構をある人は野音に、ある人は吉祥寺や六本木に風景として位置したのだろう。
 一九七〇年夏新宿。<ソウルイート>に僕はどっぷりと浸っていた。二階の不健康な空間と壊れた音量は僕の違和感を超えて麻薬のように僕を吸い寄せた。僕の知る限りでは一番巨大な音量を持つロック喫茶であったが客は皆音にしがみつくように全身でロックを甘受していた。ソウルの定住者は殆どフーテンであったが僕はフーテンですらもなかった。
僕は彼らの無政府的な秩序が好きだったけど彼らの側からは僕などはどうでも良かったのだろう。野音等のコンサートでいつも最前列でラリッて一般のひんしゅくをかうのは彼らであった。店の閉まる深夜まで僕は壁に押し付けられるようにして座りっぱなしだった。
ロックがコミュニケートの音楽などという伝説はデタラメで僕はロックにのる程につれてますます孤立して行くばっかりだった。うつむいて殻に逃げこむように体を震わしている多くの客の中には僕のような人間が何人も同時にいたのに違いない。だが皆んな他人だ。
 <新宿は河だが 海というところには着かない>
 永山則夫がこう書いた時彼も<海>を渇望しながら新宿というどぶ河に流され続けていたのだ。新宿というのは妙な街だ。それは必ずしも新宿でなければならない事はないのにそれはいつだって新宿なのだ。一九七〇年。危険な一七才も狂気の一九才も既に成人式だ。
ソウルというよどみに浮かぶ泡沫は頽廃というのにはあまりにも明かる過ぎた。ボンド・マリファナもどきの煙草。大麻の製造法がガリ版で配られたりした。踊りながらトンボを切る男。東北出らしいフーテンがロックの流れる中で故郷の民謡を唄い出す。ワルノリ。スピロヘータと精虫が蠢く便所。両性具者。ボンドをやりながら幼児のように泣いている太った女。巨大な音量の中を表情もなく経哲を読んでいるどもりの少年……一体僕は何を語りたくて語り始めたのだろう。永山則夫は<河>と真剣に対決したが故に今殺されようとしている。しかし僕は今にも崩れおちそうな時間の壁の下でそれでも何事でもないかのようにあたかも慣れたかのでもあるように<>の透り過ぎるのを待ち続けなければならないのだろうか。

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1,343字

橘川幸夫の過去の原稿などをまとめていきます。

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