【新・資本主義をチートする03】 新型コロナ禍(サードインパクト)が教えてくれた人類の未来
「資本主義をチートする」の連載と、今続けている「新・資本主義をチートする」のシリーズでは、現代を生きる僕たち私たちが、どんなふうに「資本主義」とつきあってゆけばよいのかを考えている最中です。
そして、ちょうどこの連載を書いている真っ最中に、新型コロナウイルスの猛威が世界中を襲い、セカイはすっかり様変わりしてしまいました。
まるで、いきなり世界大戦のさなかにタイムスリップしてしまったようでもあるし、あるいは「セカイ系」の物語の中に飛び込んでしまったかのような日常が、今ここにあるわけです。
「セカイが滅びる」なんてことは、小説か映画の中の話のことだったのに、つい数ヶ月前に、ほんとうにそうなってしまう、あるいは「そうなりそうな時に人類や世界はどう動くのか」を現実の体験として目の当たりにすることになってしまいました。
この新型コロナ禍が、いわゆる「災害や戦争」「疫病」といったこれまでの人類の歴史とはちょっと異なる面があるとすれば、それは「グローバル資本主義」と「ポピュリズム的ナショナリズム」のぶつかりあう真っ只中にあることでしょう。
これまでの疫病や、災害・戦争はいわば「地域限定の局地的なもの」が大半だったのに対して、今回のコロナは「世界をネットワークで巻き込んで広まった」ことが大きく異なります。
それだけ「グローバル資本主義」がこの十年程度で世界中に広がり、網目のように物流や人の交流が張り巡らされていた、という点が特徴だと言えます。
もちろん、それに対してのアンチテーゼとして、「ポピュリズム」が台頭し、平たく言えば「自国優先主義で鎖国」を主張する考えもどんどん増えてきたという点も挙げられると思います。
このコロナ禍が収まった後には、「元の世界が戻ってくる」ことはないと言われています。
第一次世界大戦のあと、第二次世界大戦のあとに、世界を取り巻く様相がすっかり変わったように、このコロナ禍は、「世界大戦ではない」とはいえ、十分に世界にとって3回目の衝撃である
サードインパクト
と呼ばれるにふさわしい事態だといえるでしょう。
新型コロナが突きつけたのは、人類に対するたった1つのテーゼです。
◆ 集合・集団の利益
と
◆ 個人、個の利益
が、厳然と世界にはあり、かつそれが
◆ 2つは常に相反する
ということです。人類とは、人の集合体、個の集合体ですが、
個と集団は常に相反するということが真実だと、突きつけられたのです。
これは、「残酷な人類のテーゼ」と後に呼ばれることになるでしょう。
グローバル資本主義がめざしたのは、世界中で経済活動が繋がることによって、世界の利益が増えてゆくというものでした。しかし、それが、疫病を蔓延させ、自国生産品の欠乏による経済打撃を生みました。
それぞれの国の内部でも「ロックダウン」「外出禁止」などにより、個人の収入の減少や停滞を招きました。
逆に、個々のウイルス検査や、疾病対策を充実させようとすると、医療崩壊が起きることもわかりました。
一人一人がマスクやアルコールを欲しい!と思うと、日本中で足りなくなるということも起きました。
つまり、今回のコロナ世界の下では、「個々の利益と、集団や社会の利益は常に相反する」ということが生じているわけです。
これまでの世界観では、「新自由主義」者などは「どんどん世界に出て行って、好き放題経済活動をやればいい!」という考え方でした。
あるいは、欧米型リベラル思想では、「自由だ!、平等だ!何者にも制限されることはないんだ!」という考え方を尊んでいました。
ところが、コロナ渦においては、そうではない
「人権の停止や、強力な制限」
が必要だと判明したのです。移動の自由、結社の自由などは、人権の基礎中の基礎ですが、それすら停止です。これは、平時にやればとてつもない人権侵害です。
これらにより「個の利益は制限をかけられることもありうる」ということが判明しました。
では逆に、すべてが集団主義であってよいかというと、それも違います。マスクを配らねばならなかったり、10万円ずつ配らねばならないのは、「個」が逆に守られねばならないことを意味します。
太平洋戦争中は、すべての国民から物資を「拠出」させて国のために使いましたが、それとは逆ですから、「統制」下においても「個」を守らねばならない、という視点が生じていることは確実なのです。
こうして客観的に見ると、アフターコロナの世界観のベースが見えてくると思います。今現在私達は右往左往して、まだ「迷っている」「困っている」最中ではありますが、
◆ 新自由主義やグローバル経済はマズイ
◆ かといって、中国のような統制・隠蔽・鎖国主義もマズイ
という矛盾に気付いたわけですね。
同じように、
◆ 市町村や病院組織や、集団システムを守るには、個々の制限が必要だ
◆ けれど個々を縛りすぎても社会全体が崩壊する
という矛盾の中でせめぎあっているわけです。
そしてなおかつ、そのどちらに傾いても「マズイ」のですから、人類がやっていることはつまり、
「集団の利益と、個の利益のバランスを取りながら試行錯誤する」ことこそが、文化文明である
と言えるのではないでしょうか。
ということは、アフターコロナの世界では、「人権」が無条件にフリーパスであることはなくなるでしょう。人権もバランスの上にあるべきだという形に変わるからです。
逆に中国のような国家主義、集団主義も、「それはそれでマズい」と修正されることになるでしょう。
どちらにしても「バランスを取る」「つりあいのとれる地点を探る」ことが、人類の勤めであるという風に、変化するはずです。
そうでなければ、「すべての国家は鎖国して、万物を自給自足する」生活にでもなるとでも言うのでしょうか?かつ、その上でどこかの国で疫病が生まれれば、その国は国内だけで蔓延して絶滅する、とでもなるのでしょうか?
それもおかしな話、無理な話だとわかります。
すべてがバランスであるということは、経済面についても
◆ 国・会社、世帯、個人の会計が常にバランス的な経済
が求められます。国が赤字であれば、国民を助けられず、会社に留保がなければ、すぐに社会が失業者で溢れます。家庭にも貯金ができる体制でないと、二度目のコロナがやってくるかもしれません。
ということは、税制面でも、経済活動面でも、「バランスよくお金が配分される」ことが重要になり、それができる国家が強いということに変わってくるでしょう。
(もちろん、すべての国家がそうなるまでは、軍事に偏って使ってしまう国も出てくるでしょうが・・・。しかし、ウイルスに対して軍事費は無力です)
バランスが重視されるアフターコロナの世界では、僕たち私たちはどのように生きてゆけばいいでしょうか。それは、まず「お金を手に入れる」ところから変革すべきだということです。
戦後の日本社会では「学校を出たら就職する(会社に入る)」ということが当たり前になってきました。バブル後は、そこに1段階の選別が生まれ「正規社員」と「非正規社員」が生じましたが、どちらにせよ「会社に入る」というイメージは変化していません。
ここ10年くらいで、ようやく「フリーランス」という言葉が生まれましたが、それは「社員」に対する対義語として使われています。
アフターコロナの世界では、この「会社に入る」「入らない」という前提が崩れます。
バランスこそが命ですから、
「就業によって得られる収入」「自分で行う事業によって得られる収入」「不労所得などの収入」
をすべての人がめざす社会が恐らくやってきます。それはそれで恐ろしいことですが。そして、どれか1つしか収入の道がない人が、次のコロナがやってきた時に「弱者」となるのです。
会社員だけの人、フリーランスだけの人、不動産だけの人、全員ダメです。
月にいくらかテレワークで出社し、月にいくらか自分の事業を回し、月にいくらかのブログ収入がある・・・みたいな人が、アフターコロナの社会人の平均像になるかもしれません。
人類の未来は、バランス良く生きることにかかっているのです。そして出来れば、お金にしても物資にしてもある程度の「ストック」が必要です。
ストックと余裕を持つものが、コロナ第二波を生き残れるのだとすれば、それは後に
人類・保管計画
と呼ばれることになると思います。