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資本主義の親友は共産主義



ここで書こうとしている事は、資本主義のAufheben (揚棄(ようき)=廃棄)でもなく、共産主義への賛美でもない。二つの対立する概念が余りにも酷似していることの驚きを記述するのが目的である。
まず資本主義から定義しよう。資本家と言えば富裕層であるが、富裕層はキリスト以前からも存在したが、ここでは近代の資本家の事を指す。具体的にはフランス革命後、国民国家と産業革命が成立した後の富の蓄積である。産業の近代化が起こる前に、大きな動きがあった。それはヨーロッパ諸国による植民地運動である。資本主義の諸悪の一つに搾取があるが、それは自国の労働者からの搾取から始まったわけではなく、他国の労働者を生活に必要のない嗜好品:タバコ、お茶、コーヒー、砂糖を作らせ、従来の経済活動=生活基盤を徹底的に奪うことである。この方法は現代まで引き継がれる資本主義の常とう手段である。農民は地主により土地を奪われ工場労働者になり、包括した農業を営んでる他国の村人の土地は全く生活の足しにならないタバコの生産者になる。生産者になるばかりか、以前の文化、技術も忘れされ、包括した生活(百姓=農業、狩り、漁業、工芸)も剥奪された。アメリカの地方都市の小売店のオーナーはウォールマートに潰され、ウォールマートの店員として低賃金で雇われることになる、ささやかであるが小売店のオーナーというプライドさえも同時に剥奪される。資本主義の定義は剥奪であるが、同時に全てのものを数値化にある。これは人間も含まれる。数値化というのは脱個性化であり、入れ替え可能な部品として存在を再定義することである。工場で働く工員はもとより、ウォールストリートで働くエリートまで、彼らの判断基準は全て数字に還元される。彼らはそれを正当性のある価値判断として受け入れる、働くざるも=数を追わぬもの、食うべからず=無価値=ゼロ。
数はどこからくるか?数学は近代科学、近代産業の基盤となる。数字は嘘をつかないは、彼らの信仰である。数学=科学による技術、医療の発展は大いに人類に恩恵を与えたが、この信仰が全てに当てはめられる公理ではない。家族間、友人間ではこの公理を採用した段階で関係は破綻することは、容易に想像できる。自分の子供が出来が悪い=高得点で無いからと言って育児を拒否をすば、親子など存在しなくなる。馬鹿な子供ほど親は可愛いものである。今度、遺伝子操作によるCRISPR babyが出産のメインストーリーになれば馬鹿な子供は存在しなくなる。このように改良=改革=生産性=合理性、技術革新と言う企業ならび近代教育を受けた者たちが標語のように並べるスローガンはすべて数値化=モダン化=画一化=近代の産物にすぎない。しかし我々はこの数字の暴力から逃れることが出来ない。刑務所、アウスビッシュに限らず、SF映画でも非人道化の象徴として名前ではなく、番号で人を選別する事はすでに資本主義社会では、デファルトである。エマニュエル・レヴィナスは顔=名前のあるもは殺せないと言っている、番号=値札は抹消できるのである。そこには歴史=記憶はない。記憶のないものが数字である。
また資本主義を定義しよう。土地=共同体を奪い、賃労働として教育し、搾取する。そして消費者として生まれ変わる。この消費者が或る意味、資本主義の肝と言っていい、実際搾取だけでは資本主義は発展しない。物が売れなければ資本家の懐は温かくならない。消費者の創出が必要であある、ではどこから消費者=貨幣を使用する者が出てくるのか?消費者を作る前にまず個人を作らなければならない、消費する時いちいち家族=村の長に許可を得ていたら、消費はままならない。それと貨幣という、これまた数字=無名性が必要である。消費は誰が、何を購入したか分からないこと=匿名性が重要である。個人を維持するには秘密が必要である。
個人は共同体から切り離されることによってはじめて存在する。この個人=消費者の創出は資本主義にとって朝飯前の事である。生活基盤である土地を奪い、都会に移住させ賃労働として存在されるまでである。搾取は資本主義においては序の口であり、初心者レベルになっている。この労働者=消費者の構造自体が時代遅れになっている。ピケティの「r>g」という不等式だ。「r」は資本収益率を示し、「g」は経済成長率を示す。r=投資=株価、g=労働=消費と置き換えてもいいい。株式はすでに実質経済の成長率など気にしてはいない。そして株式活動は人間の感情や経験も必要としないアルゴリズム取引は全体の90%を占めている。人間の入る隙間など資本主義にはないことを示唆している。純粋資本主義の誕生である。数字と言う美しい世界から醜い人間は疎外される時代は、AIがつくり出すVRの世界を待たず到来する。
AIがもっとも活躍できる専門は政治であり、純粋資本主義はそれを望んでいる。もとより資本=私有は国民国家=貨幣によって保障されてこそ存在できるのであり、その保証が政治=官僚の舵取りに依存する限り、不安な舵取りをする人間に任せるよりAIに任せた方が合理的であることは自明である。合理的であることが人道的である必要はない。愚かな人間によって、その純粋性が汚されれてはならない。
次に共産主義の成り立ちにおいて、重要な点を上げていく。
階級闘争、伝統的な価値のAufheben 転覆。教会、地主、それに伴う古典的文化の価値=アニミズムの否定。科学主義の推奨、ソ連の宇宙開発、中国のゲノム開発=CRISPR babyが象徴的である。平等という画一化による産業の硬直化、同じ製品を競争力もなく生産。私有のAufheben と国有化、一部の共産党エリートによる官僚主義。ここで考慮しなくてはならないのは共産主義と共産主義国家である。共産主義国家はことごとく失敗、破綻した。理由は共産主義自体の理論矛盾にあるのだが、共産主義国家の官僚性が自己中毒を起こした結果と言って良い。では何故自己中毒を起こすのか。階級闘争から始めよう。農奴と土地に縛り付けた地主からの解放が共産主義国家でも起こった。地主が殺害された後、土地はどこにいったのか?農民の手に渡されたのか?否、国家に帰属したのである。農民の自治は許されず、官僚の手による管理が始まる。すべての私物は国家へ没収された。私物は資本主義の元凶であり、悪しき伝統主義の習慣とばかり破棄される。しかし官僚の手による管理はマルクスが望んだ形態なのだろうか?一度奪った富は再分配されるが、再分配は人民による民主主義的な手順を踏まず、一部のエリート官僚の意志で決定される。奪ったものの分け前は、盗賊さながら首領の意志が全てになる。ネゴシエーションなどない、抗議でもしようものなら、資本主義の手先として弾劾される。そもそも強欲な資本家や地主から権力や富を人民に解放する筈が、いつのまにか官僚と言う既得権力に収斂されるのは何故か?共産主義は生産能力を持たない、生産自体が資本主義の元手であり、富の集中を容認するものと考えられる。生産力を上げるには平等より自由、競争による格差を許容せずには維持できない。生産力を増すには、単に生産量を増やすだけではダメで、消費が伴わなければならない、消費は待ってても来ない、モデルチェンジ、機能の向上など消費者の欲望を駆り立てなければならない。資本主義の梃を借りなければ生産性はあがらない。共産主義国家は最初の分け前(土地の没収、資本の凍結)後、実入りがなくなる。実入りがなくなれば、やる事は一つ、他国への軍事介入による搾取しかない、それに伴う再分配をめぐる内ゲバそして、党内部での粛清(スターリン、文化大革命)。自己中毒=再分配はたゆまなく繰り返される。最近の富の格差を是正するための再分配の動きが資本主義先進国でも活発化してきている。Basic Incomeの導入も検討されている。基本的に共産主義の枠組みを使った運動である。富のある者から無い所へ移そう。しかし富は無限ではない、GAFAの資産を再分配しても5年も待たずして枯渇するだろう、何故なら苦労せず得た金の価値は軽く、人民は大切にはその金を使いはしない。ましてその金は再投資に向けられない。あぶく銭は所詮あぶく銭である。
Basic Incomeの効力を肯定的に捉える研究結果もあることをここで記す。
最低限の生活=Basic Incomeを保障された人間はされない人間より健康で文化的な生活を維持する事が出来、離職率も低いという統計が出ている。マジックのようなシステムだが、健康で離職無しとはどうゆうことか?税金を定期的に払い、持続的に消費者であり続けることである。これはある意味国家にも資本家にも都合のいい存在である。健康であれば、外出もし、活発な経済活動が期待できる。定職は将来設計が容易になり住宅ローンも組みやすくなるだろう。Basic Incomeは,ミルトン・フリードマンらの新自由主義者によって提唱されたもので、根底には小さな国家、市場にすべてを委ねる、自己責任という弱肉強食の思想である。Basic Incomeが実施されれば、金額の如何んに関わらず、新自由主義の風に曝されるだろう。財源がなくなれば自己責任だけが残り、Basic Incomeの恩恵などすぐに消し飛ぶであろう。再配分は国家=官僚の胸先三寸である。
資本主義の友は共産主義
上記で書いたように両者とも国家の介入を必要としていること(資本主義の場合は貨幣の保証、金利の操作、恐慌の後始末。共産主義は場合は国家的スローガンに違反する人民の制裁)、搾取の相手は違えども他人=弱者または強者から富を取り上げること、一部の企業、官僚にその権力を独占させること。純粋資本主義にとって独占は望むべきことであるが、その落とし穴もある。マーケット理論では、ある市場で上手く企業が利潤を上げられるには大手三社がその市場を独占するのが、もっとも健康的で安定した経営状態を保てると言う。三社がちょうどいい数らしい。一社だけではマーケットは円熟しない。共産主義はその落とし穴にハマっている。もはや共産主義は人民のための政治システムでないことは明白なように、資本主義も人民のために設計されたものではない。置き去りにされるのは、いつの時代も人民である。人民に解決策はあるのか?無い。国民国家の人民である限り、そのシステムに依存する限り、人民は搾取され、管理される。資本主義と言う鞭と、共産主義という飴に翻弄される存在でしかない。両者とも共同体の破壊と個人の創生を前提としている。彼らにとって土地に根ざした土人など、人間の価値に値しない。共産主義国で行われた少数民族の浄化(チェチェン紛争、チベット人強制収容所)は、それを物語る。我々は土地=血を取り戻す事は出来るのか?小さな土地で自給自足の夢を垣間見る事はあるが、インフラ(水道、電気、道路)を国家に依存する限りその夢は露と消える。ノマドの生活を世界で見れば、彼らの明日は荒野の土と化す生活に近代人が耐えられるとは思えない。両壁の隙間は余りに狭く、潜り抜けるにはどれだけ身体を捩り皮骨に細らしても無理であろう。階級闘争の歴史は敗北の歴史である。
資本主義と共産主義板挟みの中で、注目するのがイスラム教である。中東の腐敗したイスラム石油国ではなく、オスマン朝におけるカリフ(預言者ムハンマド亡き後のイスラーム共同体、イスラーム国家の指導者、最高権威者の称号)に集約されるイスラム教である。彼らは国家という概念を持たない。国民国家は200年にも満たない歴史しかなく、国民国家を政治の中心に考える自体、無理がある。国民国家はシステムであり、官僚制でありテクノロジーである。マックス・ウェーバーは、このテクノロジーを「鉄の檻」と呼ぶ。
<Wiki>
ヴェーバーによれば、官僚制においては、他の組織の形態と比して、業務の正確性と継続性や、曖昧性と恣意性を排除するなどの側面が認められうる。しかし他方、官僚制は形式合理性の論理にしたがって組織を閉鎖化し、単一支配的な傾向を生み出す。この閉鎖性をウェーバーは鉄の檻という比喩によって表現する。
そもそも社会全体に影響を与える行政活動から政治性を排除することはできない。しかし官僚制は政治性を排除し、非政治的なものへと変容させ、合理化が進めることができる。これは官僚制の有効性であると同時に官僚政治の原因にもなり、そのことは「政治の貧困」をもたらし、価値観の対立や討議という政治の意義が失われることにもつながる。

「鉄の檻」と似た懸念はアメリカ建国の時出来た13州の懸念でもあった。ヨーロッパから逃れてきたピューリタンの長が、各州を自治する。国家というテクノロジーを使えば便利で効率的に行政は進むかもしれないが、それではキリスト教の信仰なしでも、人々は生活を営めるしれないが、テクノロジー=官僚制は所詮、人間の作ったもので、官僚が腐ればシステムも誤作動をし始める。それより永遠の神の教示を守り、信仰する事が長い目でみれば合理的であると考える。
だから彼らは銃の保持を権利として認め、社会保障=国家による保証を拒絶する。

建国当初のアメリカでは、警察も圧政の手段と化す可能性があると見なされ、連邦政府が警察を整備して秩序維持の任に当たらせるという考えは支持されなかった。

そこで建国者たちは、秩序維持を州以下の政府に委ねることにした。その結果、治安維持活動は地域の特性に応じて異なる性格を持つようになった。ニューヨークなどの北東部の大都市では、自治体警察が作られた。

他方、農村部は、地理的に広大であるにもかかわらず人口が少なかったため、警察を整備するのは効率的な方法ではなかった。これらの地域では、自警団が発達することになる。

社会秩序の形成について、政府の果たす役割を重視する「上からの」秩序形成と、市民社会の自発性を強調する「下からの」秩序形成という二つの方法を仮に区別するならば、アメリカでは、「下からの」秩序形成の考え方が強い。

合衆国憲法修正第2条の規定は、“A well regulated Militia, being necessary to the security of a free state, the right of the people to keep and bear Arms, shall not be infringed” である。
これを部分的に日本語に訳せば、「規律ある民兵は、自由なstateの安全にとって必要であるから、人民が武器を保蔵しまた携帯する権利は侵してはならない」となる
政府が圧政の主体となるのを防止するために銃が必要だという考えは、いまだに銃規制が進まない要因となっている。

自治は聞こえはいいが、テロリスト組織としての危うさを秘めている。武装自営団なのだから国家にも巨大資本にも、暴力で対抗する覚悟が必要ある。資本主義(自由という暴力)、共産主義(平等という暴力)には自治=宗教という暴力に活路を見出す人々が出てきても不思議ではない。共産主義も宗教もテクノロジーを全否定する事はしない。そんなことをすれば信者がいなくなってしまう。
アマゾン、Google, Face Book,Appleに対抗する手段は簡単で、電源を落とせばいい。停電が資本主義を遮断する唯一の方法である。残酷なほどに不便な生活以外に資本主義からも共産主義からも逃れる方法はない。いいとこどりは出来ない、そして人は蟲のように生き死ぬ。

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