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菊地敦己 2020 展と京都市京セラ美術館

菊地敦己 2020 展がとてもよかった。ただ、その良さを言葉にするのはとても難しい。ちょっと前に見た京都市京セラ美術館もとても良かったのだけど、やはりうまく言葉にするのが難しい建物でした。そして、このふたつの良さにはどこか通じるものを感じました。
という訳で、もしかすると、ふたつについて書いてみると伝わるかもしれないと思い、実験として書いてみます。

菊地敦己 2020

菊地敦己 2020 展は、銀座にあるクリエイションギャラリーG8で行われた展覧会です。菊地敦己自身がTwitterで表明しているように、「受注仕事」「B2以下(一部例外あり)」「現物」という基準で選ばれた印刷物を中心とした作品が、それほど大きくない展覧会場に大量に(同じく菊地敦己自身のTwitterによると1000点以上)展示されています。

とはいえ、作品自体が小さいこと、そしてとても丁寧に展示されていることもあって、ごちゃごちゃしているというような印象はまったくなく、むしろとてもクリーンな印象をうけます。

展示プランはとても明確で、壁にはグレーのスチールのパネルを貼って、床にはテーブル型の什器を置き(テーブルの天板も壁と同じグレーのスチール)、その上に磁石で作品を貼り付ける。たったこれだけの操作で展覧会はできています(あとから知ったのですが、さらにそれらの什器のサイズは3×6と4×8という合板の規格サイズだけでできています)。

基本的にはこの2つの台の上に作品が並んでいるだけなのに、ひとつの台の中には、あるまとまりがあって、そのまとまりが、となりにあるまた違うまとまりと関係したり、しなかったりする。さらには台同士も、隣にある違う台と、関係しているようなしていないような、不思議な関係が気になってくると、もはやずっと見ていられるというか、単純なのに飽きません。

展覧会を見た人なら誰しもが気づくように、この効果は「一部の作品がその台の上からはみ出している」ということにとても大きく関係しています。
このような明確なルールをつくって展示するなら、通常はそのルールから逸脱することはしません。しかし、ここでは明確なルールを一度つくっているにも関わらず一部ははみ出してしまっている。
ただ、今回の展示では、その効果は絶大なのです。

最初に書いたように、この展覧会では大量の作品を展示しています。しかもその作品達のサイズは名刺サイズからポスターサイズまでバラバラで、さらに、作品達にはあるまとまりがある。そのまとまりは、例えば「ミナペルホネンに関連するもの」、「青森県立美術館に関連するもの」というように、かなり明確なものです。
大量のバラバラのサイズの作品達を、決まったサイズの台の上に、あるまとまりを持って並べるというのは、やってみると分かるのですが、実はとても難しい。簡単なのは、台の上に仮想のグリッドや線を引いて、そのグリッドの中にひとつのまとまりをいれるというもの。これは、作品のサイズが揃っていたり、作品の量が題に対して少なければ、成立します。けど、今回はサイズはバラバラだし、作品数も多いので不可能。
そこで、今回の展示では、まとまりはつくるけれど、それはグリッドのような線ではなく、「まとまりの中にある作品達は互いに近くにあれば良しとする」という程度のゆるいルールで運用されている。そして、ここでさきほどのはみ出した一部の作品が効いてくる。

もし、台からはみ出している作品がなければ、台の中にも明確な線を求めたくなったはずです。が、すでに台からはみ出している作品があるおかげで、台の内部でも、グリッドに沿っていないことや、線からはみ出していることがおかしいとは感じない。それは、もはやこの会場の内部では、ひとつの愛すべきキャラクターになっている。

まあ、ここまでは、ある意味では普通の話なのですが、今回書きたかったのはその先の話です。

菊地敦己 2020 展は、『野蛮と洗練 加守田章二の陶芸』のブックデザインが第22回亀倉雄策賞を受賞した記念として開かれたものです。そして、今回の会場のクリエイションギャラリーG8は3つの部屋でできています。
1つめの部屋は半分の壁がガラス張りで外から見える一番大きな部屋。
2つ目の部屋はすべて白い壁でできた1つめよりは少し小さい部屋。
3つ目は先程のふたつと比べるとかなり小さく壁が斜めになった部屋。
ただ、この3つ目の部屋が、展覧会の導線上は最後にくるけれど、壁は斜めで部屋も小さいので、展示するにはなかなか難しい。その小さな最後の部屋に『野蛮と洗練 加守田章二の陶芸』の本と、さらにはこの本に関連する展覧会のポスターやチラシ、さらには、『野蛮と洗練 加守田章二の陶芸』に近しいデザインでできた、他の美術館や展覧会の作品達が一緒に展示してあります。いわば、展覧会のオチとして機能する場所に展示している。

この部屋に置かれた作品達は、どれもどこか和を感じるデザインで、大きく刷られた文字は黒の明朝体を基本としていて、色もモノクロか抑えたトーンでできており、一見すると、現代のデザインというよりは、一世代昔のデザインにも見える。ただ、それは、単に古いデザインというよりは、かつてモダンなデザインが日本に入ってきた頃に、日本語をどうやって現代的にデザインしようかと格闘していた瑞々しさのようなものを感じなくもない。新しいのか古いのか、というような二項対立を超えて、どこか両義的な不思議な魅力のあるまとまりになっていました。(もうひとつ付け加えると、この部屋の入って右側の壁のパネルだけは、はみ出しがない。多分、ここではもはやその操作すらも不要になっているのかもしれません)

さて長くなりましたが、この「単純なルールと逸脱」、「新しいのか古いのかを超えたなにか」、という部分こそが、京都市京セラ美術館にも感じた魅力だったのです。

京都市京セラ美術館

京都市京セラ美術館は、青木淳さんと西澤徹夫さんが協同で設計した古い美術館のリノベーションです(現在青木淳建築計画事務所は、この美術館も担当していた品川雅俊さんがパートナーになり社名もASに変わったので、正確には三名で書くべきかもしれません)。そのため、外観はもとより、内部も基本的な建物の構成やデザインを一部を除いて大きな変更はしてはいません。古い美術館なのでモールディングや枠などには、もともとデコレーションが施されているのですが、それらは復元して使用しています。なので一見すると、古い美術館を復元しただけで、新しいことはほとんどなにもしていないようにも見える。
ただ、ほぼ一点、エントランスだけは、極めて大きな改造が施されている。もともとの建物は古い美術館なので、まず現代の美術館としてはエントランスホールが小さく、美術館全体の雰囲気もクラシックで、良く言えば歴史を感じるもののどこか陰気な暗い印象でした。しかも、その暗さが通りの外からも感じるような建物だった。
そこで青木さんと西澤さん達は、エントランス前の広場を掘り下げ、大きな斜面にして古い建物の地下部分をエントランスにするという大改造を行っています。斜面に面した地下部分はすべてガラス張りなので、ちょうと外から見ると、ガラスでできた透明の基壇の上に古い美術館が浮かんでいるように見える。新しいのか古いのかという二項対立を超えたとても不思議な光景を生み出している。

そして、この効果もまた絶大です。先程も述べたように、この美術館は、古い美術館のリノベーションなので、内部は基本的に復元に徹している。にも関わらず、エントランスの大きな操作を見た後なので、これらの復元された部屋自体も、単に古いものを残した部屋というよりも、大きな操作を施された建物の中の一部という風にも感じる。実際、照明などは現代的にリニューアルされており、古いモールディングなどの意匠とある意味ではバッティングしているけれど、それも気にならない。古いものはそのまま残すのではなく、新しいものが付け加えられて明るく軽く浮かび上がっている。


さて、ここまで来て分かるのは、「ルールと逸脱」と「新しいものと古いもの」という問題は、多分根本では同じ問題だということです。
まず、「新しいもの」というのは、それまでなかったものと言い換えることもできる。そして、ここでいう「それまで」とは、あるまとまりを持っている。例えば電気自動車はそれまでずっと化石燃料を使用していた車を電気で動かしたから新しいといわれる。要は、化石燃料を使用するというルールを逸脱しているから新しい訳です。

これまでのデザインは、この新しさにこそ力点を置いていました。もしくはその古さに力点を置いていた。新しさはそのまま、新規な形や技術を追求し、古さは保存や伝統を守るといったかたちで、それぞれ別の行為としてデザインがある役割を果たしていた。

ところが、菊地敦己 2020 展と京都市京セラ美術館では、新しいものと古いものが同時にあるということ、もしくは、ルールと逸脱が同時に行われているということ、そのふたつが同時に存在していることそのものが、デザインの役割となっている。

言い換えれば、ここでのデザインは、なにか特異な点を打つ行為というよりも、繋ぎなおす行為として創作を捉えているということです。そして、それは現実に世界を変える方法としてデザインを捉えているということでもあると思われるのです。

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