「ウィルス」にではなく「暗示」に罹っているのだろう
6月8日月曜日
もう一ヶ月くらい前から、平日の朝は、同じシェアハウスに住んでいるフィンランド人のオリバーと坐禅を組んでいる。 今日も朝7時から、30分坐禅を組んだ。
そして今日は昼から、週2日に減ってしまった仕事だったのでオフィスに赴いた。 たった4時間の勤務で、たいしてすることもない。 この4時間の勤務がやたらと長く感じた。 他の同僚は週4,5、一日6時間程勤務しているのに、俺は未だに週2勤務ということは、左遷されつつあるのかなと思わないでもない。 でも俺はそれでも良いと、内心思っているのだ。 余程仕事が楽しくなかったんだろう。
だが、我ながら思う。
仕事がなく対して貯金があるわけでもないのに、「のんびりしてるなあ」と(笑)。
毎朝、悠々とこのNoteを書くのが楽しみなのだ。
最近、一体「新型コロナウィルス」とは何だったのだろうと思い返したりする。
私はこれが中国で発生した当初からいかがわしいと思っていて、これは作られた騒動ではないかと訝んでいたが、どうやら多くの人はそう思ってはいないらしい。
インフルエンザよりも死亡率が低いという統計があるものをこんなにも恐れるのは、俺たちが恐怖によって簡単に支配されうるということの証拠ではないのか。
ギュスターヴ・ル・ボンの「群集心理」という本には、我々「群衆」の特徴として以下のような記述が記されている。
群衆は、どんなに不偏不党と想像されるものであっても、多くの場合、何かを期待して注意の集中状態にあるために、暗示にはかかりやすいのである。一度暗示が与えられると、それは、感染によって、ただちにあらゆる頭脳に刻み込まれて、即座に感情の転換を起こすのである。暗示を与えられた者にあっては、固定観念が行為に変化しがちである。
つまり、連日のコロナウィルスの報道により、我々はウィルスにではなく、暗示にかかっているともいえる。
自分たちが「群集(crowd)」や「大衆(mass)」だという自覚がない人は、批判精神を欠いているから、簡単にTVのことを信じやすい。
先日、福岡の街を歩いていたら、大きなデパートではスタッフが全員奇妙なフェイスシールドを装着して(させられて?)いた。
この前コンビニでビールを買おうとしてお金を手で渡そうとしたら、「お金はトレーに置いてください」と言われた。
俺はまだ見てはいないが、小学校では、フェイスシールドの導入を決めているところもあるらしい。
もう完全なるアホである
俺の言うことが全て正しいというつもりはない。 ただ、もう常識的に考えてこれをおかしいと思えないのだろうか。
このアホらしさは収まることはなく、むしろ俺こそが奇人変人扱いを受けるだけに終わるのも、この大衆社会においては確定済みなのである。
俺はコロナがこのまま収束してほしいとは思っていない。
人間のアホらしさをもっともっと炙りだして欲しいと思っている。
俺は何故こんな絶望的な時代に生きているのかと昨日の夜寝ながら考えていた。 こういう時代は、モノを考える人間にとっては非常に辛い時代なのだ。
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