仰向けで寝る犬
「noteでけっこう自分をさらけ出してますよね」と言われる。
そうなのかな。誰だってそうだろうけど、日々脳裏に浮かぶさまざまな考えの中から、書くことと書かないことを取捨選択している。その取捨選択で「書く」に入れられる範囲が、人より広いのだろうか?
そうだとしても、それが必ずしもいいこととは限らないよな、と思う。
さらけ出してる(と人から思われてる)私が言うのもなんだけど、「さらけ出してる=よい」という評価軸を持つ人を見ると、感覚的にぎょっとする。
「さらけ出す=わるい」とも考えていなくて、「さらけ出す⇔さらけ出さない」と「よい⇔わるい」は別の軸だから、そこを混同している人はなんだか怖い。
◇
ただ、もしかしたら私は平均的(?)な30代の女性よりも無防備なのかもしれないな、と思う。
そういえばnote合宿のとき、夜に合宿所で喋っていて、寝転がっていたのは私とねおみのるさんだけだった(ねおさんは寝転がっていたというか、眠っていた)。
数回しか会ったことのない人たちの前であんなふうに寛げる人間のほうが、少数派かもしれない。
私は、他人の前でごろごろするとか眠るとか、すっぴんや部屋着を見せるとか、そういうことへの抵抗感が低い。
それは、山小屋生活のせいで他人がいる状況に慣れすぎているからだと思う。
山小屋は物理的な距離が近い。常に同じ空間に誰かしらいるし、いつもすっぴんだし、なんならお風呂上りの姿もさらしてるし。
よく考えたら、職場の人間にすっぴんやお風呂上りを見せたことのある人は少ないのではないか。ふつうは、社員旅行とかそういう特別な場面でしか見られる機会はないかもしれない。
そういえば、我が家にはよく友達が泊まりに来るけど、うちは部屋数が少ないのでいつも客人の前でメイクしている。客人の性別が男性であっても、だ。さすがに男性の前で着替えることはしないけど、メイクは当たり前にしちゃうな。パックも。
山小屋にいるとこの感覚が当たり前だけど、「羞恥心の欠如」と感じる人はいるだろう。
山小屋に行く前の自分が思い出せないけど、もしかしたら、もっと「他人に見せない面」が多かったかも。物理的に。
これは仮説だけど、「物理的にさらけ出すことへの慣れ」が「精神的にさらけ出すことへの鈍感さ」に繋がっているのかもしれない。
飼い犬が仰向けで寝ているとき、「安心しきって野性を失ってるなあ」と思う、あの感じ。
長い山小屋生活の中で仰向けで寝る犬になった私は、そのマインドでnoteを書いていて、それが他人からは「さらけ出してる」ように映るのではないか。
隠してる部分の少ない人間、面白みがなくて嫌だな。
◇
とはいえ、今だって日々のできごとや思考の中で、書かないことのほうが圧倒的に多い。
だって、どこに行ったとかどう思ったとかすべて書いてたら、1日5万字でも足りないのでは?
私のnoteやTwitterを読んでいる人に、どこにも書いていないことを話したとき、「えっ、それ書いてました!?」と驚かれることがある。
本当にすべて書いてると思われてるんだなあ。
なんだか「書いてないこと」の価値が高騰した気がして、ふふっと嬉しくなる。
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