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「テーマ」にこだわりすぎていたな、と思う。

数日前まで、「これを伝えたい!」というテーマがある記事ばかりを書いていた。

たとえば、こういう記事。

「私もそう思う」といった共感だけではなく、「私はそうは思わないけど、あなたはそう思うんだね」という尊重(共感できない感情への受容)もまた、心を救う。

……というテーマで書いた。

毎回、そんな感じでテーマを決めて書いていた。

◇◇◇

テーマがあると啓発や問題提起につながるため、「共感しました」「考えさせられました」といったコメントをいただくことが多い。

私としても、伝えたかったことが誰かに伝わるのは、とても嬉しい。

だけど最近、「ちょっとテーマを意識しすぎかなぁ」と思い始めた

「あのときのことを書きたい!」と思いついても、「でも、このエピソードによって伝えたいこともないし……」とお蔵入りにしてしまう、ということがけっこうある。

「こういうことがあった」というエピソードに対して、「私はこう思う」と考察を展開する。この考察こそが伝えたいテーマで、それがなければオチがつけられない。それではエッセイとして成立しない気がして、書くのを躊躇ってしまうのだ。

しかし、本当にそうだろうか?

テーマがなくても、エピソードだけでエッセイは成立するのでは?

◇◇◇

専門学生時代、作家の長嶋有さんが講師を務める小説ゼミを受講していた。

長嶋先生は「僕の書くものにはモチーフはあるけどテーマはない」と仰っていて、「あ、それでもいいんだ」と思ったことがある。

たしかに、長嶋先生の小説はその言葉が腑に落ちる。

たとえば「ねたあとに」は登場人物たちが山荘でゲームをしているだけの小説だ。何か深遠なテーマがありそうな雰囲気はするけど、やっぱり、「テーマ」らしきものは読み取れない。だけど、そこに描かれた登場人物たちや山荘の空気、ゲームといった「モチーフ」がとても素敵で、小説として面白い。

「テーマ」がなくても、素晴らしい作品はあるのだろう。

◇◇◇

もちろん、自分の書くものが素晴らしいとは思っていない。

しかしそれは、テーマがあってもなくても同じなのかもしれない。

それなら、オチがなくても「こういうことがあった」というエピソードだけでいいのかもしれない。

そう思い、昨日は実際に起きたことだけを書いてみた。

この記事には、読む方へ向けてのメッセージがない。

ただ、「こういうことがありました」というだけの記事だ。ここ半年間のことを書いたが、ただ出来事(とそれに付随する感情)を書き綴っているという点では、日記のようなものだ。世に問うことも、主張もない。

だけど、たくさんの人から「続けることの大切さに気づきました」といったコメントをいただいた。

あぁ、私が「続けることは大切」なんて書かなくても、読んだ方はそれぞれに何かを感じてくださるんだな、と思った。

◇◇◇

もちろん、テーマのある記事が悪いとは思わない。

だけど、「テーマがなければいけない」と思う必要も、きっとないのだろう。

これからはもっと、ただの日記のような記事も書いていきたいと思う。


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