すぐに見失ってしまう
一年前、こんな記事を書いた。
生きていることや、大きな災厄に見舞われていないこと、家族や友人がいること、食べるものと住む家があること。
それらはとても有難いことなのに、私はついついそのことを忘れてしまって、3月11日にだけふと思い出す。本当は、3月11日以外の364日もずっと忘れたくないのに――という内容だ。
さて、この文章を書いて一年。やっぱり、私は変わっていない。
私の心は狭くて散らかった部屋のようなものだ。
自分の悩みや不安ばかりが部屋の大部分を占め、「日常が貴いものである」という実感は、気づけば隅のほうに追いやられている。
夫に対してもそう。感謝や、彼が存在していることの有難さはすぐに紛失する(消失はしない、あくまで紛失)くせに、不満は一度置いちゃうとなかなかどかせない。
そして、3月11日が近づくと慌てて掃除して、部屋の隅で埃をかぶっていた「感謝」を拾い上げて磨く。
なぜ、日頃からそれを大切に扱えないのか。毎日眺められる場所に置き、埃を掃えないのか。
自分のそういう薄っぺらさが本当に嫌だ。
こんな薄っぺらで弱い自分が、誰かを救えるとは到底思えない。まずは自分を救うべきだ。
なのに、災害が起こると「誰か」のために「何か」をしたいような、そんな気になってしまう。身の丈を弁えられない。
私の場合、その感情の出どころは思いやりではないと思う。「こんな私がのうのうと生きてしまっている」という罪悪感を払拭したい。そんな、極めて利己的な思いだろう。
私にできることなんてほとんどない。募金と、被災地にいる友人に「何かしてほしいことあったら言って」と伝えるくらいだ。
東日本大震災のときは、「何かしてほしいことあったら言って」とmixiに書き込むと、岩手県に住んでいたAちゃんが「恐怖感を紛らわしたいからメールに付き合ってほしい」と言ってきた。
深夜までメールで他愛のない話をしながら、「私は生きてていい。少なくとも、Aちゃんとメールするという役割がある限りは」と自分に言い聞かせた。Aちゃんも、勝手に存在意義を見出されてると知ったら「重っ!」と引いただろう。
災害が起こるたびに私は、「自分が生きてていい理由」がわからなくなって混乱する。
普段は「理由なんかないし、必要でもない」と考えているけど、それが、災害によって覆されてしまう。誰かに「すみません、私って生きてていいんでしたっけ?」と確認したくなる。
災害から時間が経つにつれて、「自分は生きててもいい」という前提を取り戻し、反比例するように「今生きていることの有難さ」を見失っていく。
相反する概念じゃないんだから、両方持っていていいのに!
思うに、「自分は生きててもいい」という前提と、「今生きていることの有難さ」を両方抱きしめている人だけが、自分以外の誰かを救えるんじゃないだろうか。
そういう人になりたい。
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