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「パフェ食べる」みたいなこと

こんなことをしてる場合じゃない。

「こんなこと」とは、今こうしてnoteを書いていることだ。

今、目の前には書かなきゃいけない原稿がある。今すぐにでもnoteの画面を閉じて仕事に戻ったほうがいい。

それは、わかってる。だけど、「さっき一本納品したからちょっとくらいいっか」と、noteを書いてしまう。

いつもそう。仕事に煮詰まると、気分転換にnoteを書く。

私は無趣味で出不精でめんどくさがりやで、noteを書くくらいしかリフレッシュ方法を知らないからだ。


こういうとき、noteという場所はとても便利だ。書きたいことを自由に書ける。

私にとって、趣味の文章を書き散らかすのは「パフェを食う」みたいなことだ(※但しそのとき書きたいテーマに限る)。

パフェが目の前にあったら迷わず食べる。太るから我慢しなきゃ……と思っても、誘惑に負けてついつい食べてしまう。

だから「note書いててえらいね」と言われると、「褒めてもらっちゃっていいのかな」と思う。だって、パフェ食べてても誰も「パフェ食べてえらいね」なんて言ってくれないのに。

そういえば、少し前にTwitterで知り合った人が「仕事しなきゃと思っていてもついついTwitterしちゃう」と言っていた。

わかる。

私もついついTwitterしちゃうし、note書いちゃうし、パフェが目の前にあったら食べちゃう(めったに目の前にないけど)。

ひとしきり「そんなことしてる場合じゃないのに、しちゃいますよね~」「ほんと、困っちゃいますよね」と言い合った。

私にとってnoteはそういう類の娯楽だけど、そうじゃない人ももちろんいるだろう。

たまに、他の人のnoteで「私なんかがnote書いて何か意味があるのかな」といった言葉を見かける。

それを見て、私は首を傾げる。その言葉は私にとって「私なんかがパフェ食べて、何か意味があるのかな」と同義だからだ。

いや、好きな食べ物が目の前にあったら食べちゃうでしょう。意味とかなくても……。

また、「私のような素人がnote書いていいのかな」といった言葉を目にしても、やっぱり首を傾げる。

いいでしょう、そりゃ。ダメだったら物理的に書けないようになってるでしょう。

実際、cakesなどのメディアは書きたい人が誰でも書けるようにはなっていない。けれどnoteは「誰でも書ける仕様」で、それはつまり、誰が書いてもいいからでは?

ファミレスで、パフェ食べる資格がない人(商品の代金を払えないとか、そもそも注文してないとか)は、パフェが運ばれてこない。

目の前にあるってことは、それは食べていいってことじゃないか。

だから、「私なんかが食べていいのかな」ってことは、ないと思うんだ。


私にとってnoteは「パフェ食べるようなもの」だけど、その捉え方を他人にレコメンドしたいわけじゃない。

私自身の中でも、noteの意味合いはそのときどきで違う。だいたいはパフェ食べるみたいなことだけど、たまに義務にすり替わっていたりする。ときには、「自己実現の手段」的な、意識高いものになってることも。

だけど、もしもnoteを書くことに対して、「私なんかが書いても意味あるのかな」「私なんかが書いてもいいのかな」と思うなら。

私は「意味なんて必要なくね?」って思うし、誰が書いてもいいと思う。

そのことは、伝えたいな。



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