そして、生活は続く
たびたび書いているが、夏が始まった頃からずっと、うっすらとした鬱状態が続いている。
特に何があったというわけではない。脳内物質やらホルモンやら何かの血中濃度やらが、不足しているか過剰なのか、そういうことなのだろう。不幸ではないが、不調なのだ。
不調が続くと、「生きるのしんどいなあ」と思う。
かと言って、生への執着が薄れる……というわけでもないらしい。少なくとも、私の場合は。
そんなことを考えたのは、先週の台風19号がきっかけだ。
台風19号の上陸に備え、水を貯めたり、バッテリーを充電したり、窓に養生テープを貼ったりしながら、
「私ってめちゃくちゃ生きたいんだなあ」
と思った。
そういえば、普段はあまり、「生きたい」と思わないままに生活している。
いや、普段だって生きたいのだけど、それをわざわざ言語化して思わない。自分の中にある生存欲求を認知しないままに生きている、というか。
そして、災害のたびに自分の生存欲求に気づいてハッとする。
何度も何度も、それを繰り返している。
◇
台風19号が上陸した当日は家にいた。
私の住む町田市も、大雨警報は出ていた。我が家は川から離れているし、鉄筋コンクリートだし、3階より上だし、避難の必要はないと判断した。
体調が悪かったので布団にくるまって、インターネットで台風情報ばかりを見ていた。心配な地域に住む何人かの友人に連絡をとったりもした。
知人が避難所に行ったことをTwitterで知り、自分が安全な場所で布団にくるまっていることを申し訳なく感じる。
いつもこうだ。災害のたびに、無事でいることに罪悪感を抱いてしまう。その罪悪感は、誰のことも幸せにしないのに。
ここ数ヶ月の鬱状態のことを思う。
今まさに被災している人と比べたら、自分の苦しみなんて取るに足らない矮小なものだ。
そう思い、「いや、それはそうなんだけど、そもそも比べることがお門違いだよな」と思いなおす。
◇
翌朝はスコーンと晴れた。
長野や東北で大きな被害があったことを知り、気持ちが粟立つ。
夫と散歩に出ると、近所の野原にはいつの間にか、ススキとセイタカアワダチソウが生い茂っていた。少し遠くの公園まで歩き、パン屋さんでカレーパンを買った。
「何気ない日常に感謝」というよくあるフレーズを、本当のこととして実感する。
そして、いつもこうなんだよな、と思う。
災害があるたび日常に感謝するのに、日常に戻るといつの間にか忘れてしまう。人間には恒常性があるから。
それはきっと、悪いことではないのだ。生きていることへの感謝や、生存欲求を意識したまま日常を過ごせる人がいたら、それは素晴らしいことだと思う。けれど、そうじゃない人がダメということはなくて。「喉もと過ぎれば熱さも忘れる」人が一定数いるからこそ、世界の恒常性は保たれているんじゃないだろうか。
もちろん、復興のための行動や、今後に向けての防災意識は大切だ。被災しなかった人間のひとりとして、できることやすべきことは何か、考えている。
けれど、災害時に思ったことを日常の中でつい忘れてしまうのもまた、当たり前のことで。それで、自分を必要以上に責めたくはないな。
そんなことを考えつつ、日常に戻る。
そして、生活は続く。
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