雨男

二十歳の頃に書いた小説が出てきたので公開します。

トレイを拭きながら外を眺める。

通りに面した壁は一面ガラス張りになっていて、今日のような雨の日は色とりどりの傘が行き交う。

いつの間にやら、雨の日は外を眺めるのが習慣になっている。そんな自分に気づき、美雨はトレイに視線を落とした。

――無意識のうちに、待ってしまっているんだろうか。

美雨が駅の側のパン屋でアルバイトを始めてもう四年になる。この店をやめない理由も、彼を待っているからかもしれない。

美雨が水無月に出逢ったのは四年前の六月。十六歳で、高校を辞めてこの店でアルバイトを始めたばかりだった。

その日は、出勤した時からすでに雨が降っていた。

美雨は雨が嫌いだ。雨の日は全てが嫌になる。パンの焼ける匂いも、毎日あんぱんを買っていく老婦人も、まるで教室のような蛍光灯も。そういえば、父親が出て行ったのも、高校に退学届を出したのも雨の日だった。

美雨は、窯から出されたばかりのべーグルを赤と白のギンガムチェックのクロスを敷いた籐籠に並べた。プレーンベーグル、ブルーベリーベーグル、レーズンベーグルの三種類だ。

籐籠を持って焼き場から店内に出る。店内には若い男の客が一人いるきりだった。二十歳くらいだろうか。白いTシャツに色褪せたジーンズ。妙に暗い雰囲気の男だ。

「べーグル焼きたてです、どうぞご利用くださいませ」

美雨がマニュアル通りに言いながら籐籠を陳列棚に置くと、男が言った。

「どれがうまい?」

三種類のべーグルの中でどれが一番美味しいか、ということらしい。

「えっと、ブルーベリーが一番人気があります」
「そう」

男は唇の端を少しだけ上げ、トレイにレーズンべーグルを乗せた。

「それはレーズンです」と言いかけた時、男が言った。

「人気のある物は苦手なんだ」

美雨はどう答えてよいかわからず、ただ彼を見ていた。彼の左眼の下のほくろは、なんて可愛らしいのだろう。

有線からエルトン・ジョンが流れていた。

それが、美雨と水無月の出会いだった。

それ以来、週に一、二度の割合で水無月は店に顔を出すようになった。彼はいつもレーズンべーグルを二つ買う。

次第に、美雨は彼とレジカウンター越しに言葉を交わすようになった。

初めて会った時同様、水無月の言葉はいつも美雨を返答に困らせる。そんなとき、美雨はいつも彼の左眼の下のほくろを見つめる。その可愛らしさは、彼がそれほど気難しい人間ではない証拠のような気がした。

水無月の名前を知ったのは五回目に会ったとき。その日も、雨が降っていた。

「美雨っていうの?」

この店では胸にフルネームの書かれた名札をつける。

「はい」
「六月生まれ?」
「違います。でも、雨の日だったみたい」
「俺も、雨の日。梅雨の時。だから水無月っていうの」
「みなつき?」
「そう。変わった名前でしょ」

次第に、美雨は水無月を待つようになった。

鉄板を拭きながら、パンを補充しながら。水無月が来なかった日は拍子抜けしたような気持ちで店を後にする。

――彼は自分以外の店員とも親しく言葉を交わしているのだろうか?

それを想像すると、胸がざわついた。

出会ってからひと月が経った頃、ふたりは個人的に会うようになっていた。

個人的に会うようになって、水無月についてわかったこと。

二十歳で、店の近くのガソリンスタンドでアルバイトをしているということ。引越しが趣味で、十六のときから一人暮らしをしているけれど、もう二十回は引越しをしていること。ニーチェが好きなこと。ショートホープを吸っていること。

美雨も、自分のいろいろなことを話した。

水無月は時々ちゃかしながらも、真剣に聞いてくれた。駅前のミスタードーナツで、アメリカンコーヒーを飲みながら。美雨が喋り疲れてすっかりどろどろになった抹茶シェイクを啜ると、水無月は必ず「美雨は俺の十六の頃に似てるよ」と言うのだった。

水無月は携帯電話を持っていなかった。部屋の電話も知らない。美雨から連絡をとる手段はなかった。美雨はただ、水無月が店に来るのを待つばかりだ。

一緒にいるうちに、美雨にとって水無月は特別な存在となった。

それはまるで宗教のようだった。

――水無月には敵わない。水無月の存在は絶対で、水無月の思想が真理だ。

彼のことが大好きで、どうしようもなかった。けれど、自分が彼の恋人になれるとは到底思わない。水無月に触れるのは、なんだかおこがましい気がする。

けれどどうしても触れたくなって、一度だけ水無月の手を握ったことがある。

水無月は表情を変えず、黙って握り返してくれた。雨のようにしっとりと冷たい手だった。

水無月がいなくなったのは、暑さもフェイドアウトし始めた夏の終わりのことだった。

二週間も店に来ないので不安になり、店の近くのガソリンスタンドへ行ってみた。

水無月の姿はなかった。他の店員に聞いてみたら、一週間ほど前から無断欠勤が続いて店長も怒っていると言う。自分と同じ歳くらいのその男は、美雨の電話番号を教える代わりに水無月の住所をコピーしてきてくれた。

美雨はその足で水無月のアパートへ向かった。

地下鉄を降りると、目的のアパートへ向かって走る。底の厚いサンダルは走りづらくてもどかしい。美雨はそれを脱いで、手に持って走った。空はどんよりと曇っている。

――遅かった。

水無月はすでに部屋を引き払って引っ越していた。どこへいったのか、大家も同じアパートの住人も誰も知らなかった。

水無月の部屋だったニ〇ニ号室の前で、美雨は膝をついて泣いた。

泣いていると、雨が降ってきたのが音でわかった。

ふと、ドアに付いている郵便受けの中に何かが入っていることに気付いた。手を突っ込んで取り出してみると、それは電気代の請求書だった。

「サトウ ミナツキ 様」

初めて知った、水無月の苗字。美雨は少し笑う。水無月にしては平凡すぎる苗字だと思った。

アパートの階段を降り、雨に濡れながら駅へ向かう。髪も顔もキャミソールも、冷たい雨に濡れていく。

文字通り頭を冷やして、美雨はようやく夢から醒めた。水無月という夢。美雨は、雨か涙かわからない水滴を拭った。

ひどく、虚しかった。

水無月のことを何も知らないのに、熱病に冒されたような恋をしていた自分。

恋に酔って、サンダルを脱いで裸足で走った自分。アパートの外廊下で声を上げて泣いた自分。

水無月の苗字が平凡であることを知って、少し引いた自分。

どれもこれも薄っぺらで芝居がかっている。

あんなにも焦がれていたのは、水無月ではなく、自分が作り上げた彼の虚像だったのかもしれない。

美雨は、早く大人になりたいと思う。こんな安っぽい恋に酔わない大人に。

今日のような雨の日、美雨はやっぱり水無月を思い出す。

あれから四回目の六月が来て、今、美雨はあの頃の水無月と同じ二十歳だ。あの時水無月はとても大人に見えたけど、いざ自分がなってみると二十歳は全然大人ではなかった。

十六歳の自分を、可愛いとも恥ずかしいとも思う。そして、羨ましいとも。もうあのような盲目的な恋はできない。

四年の歳月はそれなりに美雨を変えた。底の厚いサンダルの代わりにシンプルなパンプスを履くようになった。接客も上手くなったし、雨も前ほど嫌いじゃなくなった。

一番変わったのは、四年の間に水無月のことを思い出さない日のほうが多くなったこと。

けれど、思い出はいつも、何かに触発されて甦る。

ショートホープを吸っている人に出逢った時。べーグルが焼きあがった時。雨が降ってきた時。

思い出すたび、水無月に会いたいと思う。

四年経ってもまだそう思うのは、水無月との思い出を美化しているからか、それともあれが本当の恋だったからか。

水無月はきっと、「本当の恋ってなんだよ」と皮肉っぽく笑うのだろう。


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