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「何個握ってきたと思ってるの」

高校生の頃、初めておにぎりを作ったら、上手にできなかった。

かたく握ればごはん粒がぎゅっとしすぎるし、やさしく握ればボロボロと崩れちゃう。形も不恰好だ。

「お母さんみたいにうまくできない~!」

と言ったら、母は笑いながら、

「当たり前でしょう。ママが今まで何個のおにぎりを握ってきたと思ってるの」

と言った。場数が違う、と。

それから何年か経って、山小屋でいくつものおにぎりを握るうち、私も母のように適度なふんわり加減のおにぎりを素早く作れるようになった。

「私、要領悪くって、サキさんみたいにテキパキ仕事できない……」

山小屋で仕事を教える立場になってしばらく経った頃、来て数ヶ月の後輩スタッフに言われた。

そのときの私は、山小屋で働き始めて8年くらい経っていた。

「だって私は8年やってるから。そんな、数ヶ月で同じように働かれたら私の立つ瀬がないよ~(笑)」

そう言うと、彼女は「そっか、そうですね」と頷いた。

私だって、最初からうまくできたわけじゃない。できるようになるまでに、たくさんの時間を費やしている。

でも、そういうふうに思ってしまう後輩の気持ちにも覚えがある。私も、自分にできないことができている人を見ると、「すごいなあ、それに比べて私はダメだな」と落ち込んでしまうから。

たとえ相手のほうが圧倒的に場数を踏んでいても、単純に結果だけを比べてしまうのだ。

私が初めて作ったおにぎりと、当時すでに母親歴20年以上の母のおにぎりを比べて、「お母さんみたくできない」と思ったように。

なんでも場数を踏むことによって上達したり、精度を上げていくものだが、私はどうも「場数の差」を考慮に入れるのを忘れがちだ。初心者のくせに経験者と比べて自分のできなさに落ち込む……みたいなことがよくある。

それは謙虚なようで、実は無意識のうちに相手の場数を軽視している。なんせ無意識だから軽視しているつもりはまったくないのだが、結果的に軽んじてしまっているのだ。

3人の子を育てた母は、いったい何個のおにぎりを握ってきたのだろう。

あのときの私は、母にも「初めておにぎりを作った日」があったことをまったく想像していなかった。

相手の経験や努力、今までそれに費やしてきた時間。そういったものに思いを馳せることをせず、単純に目の前の結果だけを比べてしまう浅はかさが、私にはある。

ついでに言えば、子供の頃から「できるようになるまでの長い長い道のり」をワープしたがる癖がある。悪癖だ。


今の仕事をしていてもそう。Twitterで、私よりずっと長くライターをしている方の仕事量を目にしては、「すごいなあ、それに比べて私はダメだな」と落ち込む。

私は仕事が遅い。早く的確な仕事ができる人はすごい。尊敬する、憧れる、羨ましい。

けれど、その人だって最初から努力なしにその域に達したわけではないだろう。もちろん才能の差はあれど、私なんかよりずっとたくさんの時間と労力をこの仕事に費やしてきている。たかだか一年前に始めた私が羨むのは、謙虚なようでとても傲慢だ。向こうにしてみれば、「同じ量書いてから言えよ」と思うだろう。

できる人を見たとき、その人が「できるようになるまでの道のり」に思いを馳せたい。

そして、私もその道のりを歩きたい。



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