映画「ダンシングホームレス」

「ダンシングホームレス」を観た。東京のダンスグループを追ったドキュメンタリーだ。新人Hソケリッサというそのグループのメンバーは全員がホームレス、またはホームレス経験のある生活保護受給者だ。ソケリッサの踊りは独特であり、スズキ裕キというコリオグラファーが振り付けを指導している。スズキ氏の方針の核となっているのは「自由」だ。氏は元々メディアでの振り付けを指導していたが、その型に嵌まったダンスの捉え方、ダンス業界の狭い中での派閥、座席争い、ポジション争いに嫌気が差して、その世界から身を引き、ホームレスのダンスグループを結成した。技巧、社会集団の対極を目指したのだろう。
しかし、ホームレス社会の中にも集団の規律による束縛や労働はある。(厚生労働省の2016年10月のホームレスの実態に関する全国調査では、ホームレスの就業率は55.6パーセント)
都市部のホームレスは集団で暮らすことで、暴力被害を回避する傾向もある。
ソケリッサのメンバーはご存知である方もおおいBig Issueで雑誌販売をしたり、生活保護受給者も含まれるので、一般人が抱くようなホームレスに対するイメージよりもいくらか社会的で不自由である。しかしいずれのメンバーも好む好まざるに関わらず、社会(や家族)からの逃避、ドロップアウトを経験し、生きる糧を得る基盤は不安定で流動的だ。
そんな彼らを指導するスズキ裕キ氏の振り付けスタイルは即興性に重点を置いている。即興性といっても私達の身体の動きはいとも簡単に「型」の動きをしてしまう。「型」の動きはなめらかだ。「型」の動きをすれば身体に負荷はかかりにくく、表現としてもある程度はカタチになる。スズキ氏はダンスの指導中に、今何を感じていますか。感じたことを言葉で留めないで下さい、そのまま流れるままにして下さい。という意味合いの事を繰り返し言う。
意識が現在から離れて未来を見据えるとそこに恥の感情が生まれる、先の見通しが恥の感覚を予感させ、表現の幅が狭まるといっていた。ソケリッサの踊りは、唐突な動きをする。かといってマイケルジャクソンの様な、キレのあるものではなく、ソケリッサの踊りは緩やかな動きのなかに唐突さが現れる。身体機能の優位を誇示する為の踊りではない。コンテンポラリーダンスの面白くなさは滑らかな動きを否定する代わりに、身体能力の優位を頼ってしまっていて、結局それは流動性αの欠如を埋める身体性βでしかない。そのせこさが見ていてつまらないのだろう。
βはαのカウンターであり、βはαの欠如を埋めるため、そのせこさ、つまらなさ、小さい領域内での座席争い、そんなものはダンスでわざわざ見せられないでも、社会生活の中で嫌という程見ているのだ。
身体の用途、私自身の身体というものをどう使い、作用させるか。
言葉の用途、私自身の発する言葉をどう使い、どう作用させるか。
それは贅沢や色気というものにつながる鍵かもしれない。
贅沢とは何なんだろう。色気とは何なんだろう。
贅沢と聞いて即座に浮かぶものは派手な消費生活だろう。では、大量消費生活以前に贅沢は存在しなかったのか、そんなはずはない。現代の欲望は他人の欲望を欲望させられている状態であることが多い。ジェフリーミラーの「消費資本主義!」でも言及されているが、現代先進国のわれわれの消費動機は‘見せびらかし‘だ。見せびらかしが成立するためには、優劣の基準が必要になる。その優劣の基準を設定し、扇動しているのが資本だ。
では、消費資本主義に煽られる以前の私達の贅沢とはなんだろう?私達はそれを享楽や快楽のなかにそれをみいだしていたのではないだろうか。金銭による接待や消費ではなく、アンコンディショナルで過剰な贈与の応酬。そのなかに色気や贅沢と言われるものは存在していた。
身体の無条件性、過剰な贈与、それは労働に充てられたものではない。性行為に充てられたものではない。戦いに充てられたものではない。
言葉の無条件性、過剰な贈与、それは意志の疎通に充てられたものではない、称賛や罵倒に充てられたものではない、取引に充てられたものではない。
それは、誰かや何かとの交換ではない。
それは、何者でもない、なにかでもない。でも、それに向かっての、それに向けられない、無条件の贈与だ。
ソケリッサの踊りは、私達を引き付ける諸々の引力から決定される軌道をはるかに離れて、空間や非空間を自由にたゆたう。それを見ている時私達も、一瞬であるが、その遊泳に相伴できるのである。

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