青春のスタビ譚〜愛しきブスたち〜②

CASE1 マイ
プロフィール
2001年4月に遭遇。埼玉県桶川市に生息。当時15歳。坂庭先輩似。変な喘ぎ声。デートにドカジャンを着てくる。足が速い。


2000年の終わり、私は中学2年生だった。
私の地元は埼玉県の越谷市だ。現在も変わらず越谷で暮らしている。いまでこそイオンがあるとか(日本一大きい)、EXILEのアツシの地元だとかでにわかに認識度も上がったが、当時は何もなかった。不良が多いというだけの、田舎にありがち街だった。
石を投げれば野犬かヤクザにしかぶつからないような街に育てられた私は、見事その色に染められ、ヤンキーになった。友達もヤンキーで、パチモンのベルサーチを着ていたり、『特攻の拓』の武丸さんみたいな頭をしたやつらしか周りにいなかった。
ヤンキーの習性に、なぜか懐メロを好むことが挙げられる。そして、なぜか誰かの家に溜まりたがる(そういう家は、得てして借家のボロ家だったりする)。私たちも例外なく、尾崎豊よろしくやたら自由を謳歌したがり、結果、昼夜問わず私の家に入り浸るようになった。
しかし、金がない。することがない。やることといえば、初代スマブラで遊ぶのみ。とにかく刺激がほしかった。
そんなとき、一つ上の坂庭先輩があるものを見せてくれた。
「この携帯よお、カメラが付いているんだぜ」
先輩はジェイフォン初のカメラ付き携帯を持っていた。ソフトバンクでもボーダフォンでもない時代だ、いまのように小学生のガキでもスマホを持っているなんて夢のまた夢で、私たちの限界はツーカーのプリペだった。
それが一流キャリアの、しかもカメラ付き。先輩は神だった。
「な、何に使うんですか、カメラ?」
写ルンです以上のことが携帯にできるのか。
「写メってのがあるんだよ」
カメラで撮った画像をメールに添付して送る。現像の手間も、郵送の手間もない。なんとも画期的なシステムだった。
ただ、もっと驚かされたことがあった。
「これを使って、メル友と写メ交換するんだ」
メル友という言葉を初めて知った。メールフレンドのことだ。先輩は会ったこともない女とメル友になり、たがいの写メを交換しているという。
そのメル友を見つける手段が、出会い系だった。
「『エキサイトフレンズ』ってサイトなんだけど」
ジェイスカイの公式掲示板サイトのことだ。そこにずらりと女の投稿が並び、メル友を募集する簡単な挨拶文が踊っている。
私と仲間たちは震えた。4秒に一回はエロいことを考えている歩くチン・ポ・コにとって、こんな方法で女と出会うことができるという事実に度肝を抜かれた。思わず先輩の手から携帯を奪ってしまったほどだ。
「でも、写メ交換すると連絡とれなくなっちゃうんだよな。何でだろ」
そりゃそうだろう。坂庭先輩はブサイクだ。超がつくほどブサイクだ。ブサイクの写メを送られてまでメル友ではいたくない。
興奮した私たちは、後日、先輩の携帯をパクった。どうしてもメル友がほしかった。もちろん即バレた。ヤンキーの掟、ヤキを入れられたのは言うまでもない。


それから日々は流れ、私たちは中3になった。進級に伴い、グループの中でキャリアの携帯を買ってもらうやつが次々と現れた。かくいう私もドコモの携帯を手に入れていた。
待望のキャリア携帯。やることといえばひとつしかない。出会い系だ。
奇しくもその数日前、ブサイク坂庭先輩が耳寄りな情報を教えてくれていた。
「スタビやばいぞ」
スタービーチ.com。言わずと知れた出会い系サイト。各キャリアのみが使えるwebサービスの掲示板ではなく、全キャリアからアクセスが可。当然、ユーザーの母数は大きくなる。
すなわち、出会える確率も高くなる。
「……皆、準備はよいか?」
私の問いかけに、仲間たちが神妙にうなずく。狭い自室で肩を寄せあった私たちは、携帯を片手に咆哮を上げた。
「出陣じゃあああああ!」
携帯のボタンを連打し、スタビのサイトにアクセスする。トップ画像の、白黒の砂浜イラストを見ただけで、私は勃起していた。
スタービーチ、いや、スタービッチ。星の砂浜ならぬ星のビッチたちが、私たちを待っている。
スタビビギナーの私たちは、大きな希望を胸に、未知なる旅路をおそるおそる進んだ。ルールを探りつつのトライ・アンド・エラーだ。
とはいえ、ルールは至ってシンプルだった。掲示板式で、投稿および他者の投稿文にメールしてターゲットとコンタクトをとる。直アドだから話も早い。あとはメールのやりとりで詳細を詰めていけばいい。
私は様子見も兼ねて、まずは女の投稿を覗くことにした。それによると、女の目的には三つのパターンがあることがわかった。
ひとつ、メル友の募集。あくまでメル友のみの関係で、同性を求めることもある。メル友を持つことがファッションのひとつになっていたこともあり、また趣味友を探すという意味合いもあった。
ふたつ、恋人の募集。たいがい好みのタイプをズラズラと並べている。最後に『チャラ男、ヤリモクは×』なんて書いてあることがほとんどだ。まじめな出会いを求めている女はこのパターンが多い。
三つ、いまから会える相手の募集。つまりはこれから遊ぼうというお誘いだ。ここでも一応の希望や求めるタイプが並んでいる。私たちにとってはこのカテゴリーが最も望むところだった。
当時は出会い系サイトの年齢規制もなかったので、私は15歳から19歳の埼玉エリアに絞り込み、ふたつ目と三つ目のパターンに分類される投稿へメールを送った。『男はお断り!』というメル友募集の女にまでメールを送れるほど、私のハートはまだ強くなかった。
初めてのメールはものすごく緊張したのを覚えている。口の中が乾いていた。それは仲間たちも同じようで、私たちは揃って息が臭かった。
「……返事来ねぇなかぎ」
「……俺もだ」
臭い息で囁き合う私たちに、女たちからの返信はなかった。ひとつひとつの投稿に、その都度、投稿の目的に沿ったメールを送っているにもか関わらずだ。労力ばかりで実りがない。
スタビはやばいんじゃないのか。スタビは出会えるんじゃないのか。
女のメアドは無数に並んでいる。ナンパをして訊き出す必要もない。なのに返事はない。
チン・ポ・コだけが悲しく勃つ、そのときだった。
「おいっ、携帯が!」
仲間に肩を揺すられた。私のメール着信音が鳴っていた。
「お、おうっ」
汗びっしょりの手でフィリップ式の携帯を開く。皆で画面を覗き込むと、そこにはこうあった。
『メールありがとー!  どこ住み?』
それが、マイとの出会いだった。


あらゆる女へメールを送りすぎたせいで、返信があっても最初は誰からかわからなかった。送信フォルダにある『俺も彼女ほしいんだけど、よかったらメールしてくれない?』というメールを見て、彼氏募集中のマイという女だったことを思い出した。
初めて釣ったマイとのメールは、めちゃくちゃ楽しかった。
たがいのパーソナルデータを交換し合い、わかったのは、マイが同い年の15歳だということ、桶川に住んでいるということ。本人いわく、ギャル系らしい。
『好きなタイプはヤン系かな!』
俺やん。それ、俺のことやん。
私は舞い上がった。すでにマイは私の彼女であるとさえ思い込んでいた。
そこへ、賢人な仲間のひとりが大切なことを思い出させてくれた。
「その女、かわいいのか?」
そうだ。私はマイの顔がわからない。写メができる携帯はジェイフォンの一部機種のみで、他キャリアでは普及が進んでいなかった。顔を知る方法がない。
悩んだ末に、私はこんな質問をした。
「マイは誰似?」
芸能人の誰に似ているかで顔面偏差値を探る──写メ普及前の、出会い系のスタンダード。私も野生の本能でその正解にたどり着くことができた。
しかし、マイの返信は実に舐めていた。
『ママに似てるって言われるよー』
知らねえよ。てめえの親のことを聞いているんじゃねえよ。
マイの天然ぶりに微笑みつつ、芸能人だと誰に似てるか改めて聞くと、『いない』という返事だった。
困った。ならば、いままで何人の男と付き合ったことがあるかを訊く。私たちはまだガキだったが、かわいい女はだいたい早熟だ。周りが放っておかないから、結果として早熟になる。人数が多ければ期待値は高い。
『六人だよー』
ということは、中一の頃から平均換算して一年間に三人。交際期間計算では平均四ヶ月。ガキの交際期間としても妥当だ。四ヶ月サイクルで恋人ができるという計算に無理はない。
期待できる。
俄然、私のテンションは上がった。私の頭の中のマイは、とても可愛らしい笑顔を浮かべていた。
『俺も六人だよ。芸能人では村上信五と岸田健作に似てるって言われる』
マイの質問返しにこちらも答える。付き合った人数はマイに合わせただけで正確には覚えていなかったし、村上信五(関ジャニ)と岸田健作(当時放送していた『笑っていいとも!』青年隊のひとり)に似てるとはよく言われたものの、果たして彼らが男前かどうかには疑問が浮かぶが、私の返信にマイのテンションも上がっていた。
その食いつきが、思わぬ幸運を招いた。
『今週の土曜日、会えない?』
マイからのお誘い。どのようにしてアポを取り付けるか悩んでいただけに、渡りに船だった。おまけに越谷まで来てくれるという。
私はそのメールだけで逝ってしまった。


約束の日、私は仲間たちに囲まれて制裁をくらっていた。
「KPか、この野郎!」
KP。個人プレー。初めてスタビをやった私に、『友達も呼んでよ』というメールを送るマナーはまだ身についていなかった。仲間たちが怒り狂うのも当然だ。逆の立場であれば私もそうしている。
散々足蹴にされたあとで、私はマイにメールを送った。
『いまどこ?』
『越谷駅に着いたところだよー』
マイが私のテリトリーに入った!
私はさらに、タクシーで自宅に来るよう指示した。電車に揺られ、マイも疲れていることだろう。女に優しく、それがジェントルマンの嗜みだ。残念ながらタクシー代を払ってやれるほどの財力はなかったが。
やばい薬を決めたかの如く高揚感に包まれた私は、待ちきれず家の前に立った。だったら迎えに行けばいいという話だが、私には『面倒臭がり』という不治の病があった。
やがて訪れた午後1時37分、私の家の前にタクシーが停まった。
来た!
マイがタクシーの運転手に金を渡す。セミロングの髪が覆っているせいでまだ顔が見えない。だが、格好はギャルっぽく太ももが露わになっている。
マイがタクシーから降りてきた。
「ジェイル?」
「違います」
私は即答していた。けれど、マイは笑っていた。
「ウケるー」
全然ウケない。ウケたくもない。
ひとことで表現するなら、マイは坂庭先輩に似ていた。坂庭先輩はブサイクだ。すなわち、マイは男顔の圧倒的なブスだった。
デビュー戦からラスボスに出くわした気分だった。
「元気なくない?」
「そ、そんなことないっすよ」
坂庭先輩に似ているから、つい敬語が出てしまう。それを照れだと捉えたのか、マイは「かわいい」と微笑んだ。
マイの笑顔はブスだった。ブスの勘違いはいつもポジティブだ。
こうなったら仕方ない。私は肚を括り、マイを自宅にあげた。トタン造りの借家のボロい二階建て。家の前にはナンバープレートのない原付やパーツの残骸が転がっている。このヤンキー臭にドン引きしてくれることを願ったが、ヤンキー好きのマイにはびくともしなかった。
階段を上がって自室に入る。部屋には仲間たちがいる。
彼らはマイを目にして、眉をひそめた。
「……坂庭先輩?」
皆、私と同じ感覚を抱いたようだった。
「坂庭先輩って?」
首を傾げるマイに、私は慌てて言い繕った。
「お、女の先輩でさ、マイに似てるんだよね」
「バリバリの男じゃねえか。あれのどこが女に──」
仲間のひとりのツッコミに、私は無言でボディブローを放った。仲間が黙ったところで私たちは腰を下ろした。
「こいつらは俺の仲間。みんなタメだから」「よろしくー」
マイが挨拶をする。仲間たちはそれを無視して訊ねた。
「友達呼べないの?  みんなで遊ぼうよ」
「私、友達あんまりいないんだよね。たぶんいますぐは無理だと思う」
「じゃあいいやー」
会話終了。仲間たちは立ち上がると、「カラオケ行ってくるわー」と部屋を出て行った。友達を呼べないブスはただのブスだ。
最強の敵とのタイマン。果たして私はどうなってしまうのか。
「思ったよりもずっとカッコよくてよかった」
マイは思った以上に私を気に入ってくれたようだった。
「お、俺もだよ。思っていたよりずっと──」
ブスだった。俺の期待を返してくれ。そう言いかけたところで「嬉しい!」とマイがすり寄ってきた。またマイは勘違いをしていた。
近い。距離が近すぎる。ベッドに腰掛ける私に、隣に座るマイ。身体と身体は自然と触れ合い、熱っぽい視線を感じてならない。
ただ、悲しいかな。私は若かった。ペニ公同然だった。匂いは女、露わになった太もも。私は激しく迷っていた。
坂庭先輩とやれるのか。お前はそれでいいのか。
逡巡して決めた。それでいい。やらないで後悔するなら、やって後悔したほうがいい。先人の言うことに間違いはない。
マイの両肩をつかんだ。私はマイを見つめた。マイは目を閉じた。切ないほどにぶっ飛ばしたくなった。
私はマイをベッドに押し倒した。マイは私をすんなり受け入れた。
無制限一本勝負がはじまった。


マイとのタイトルマッチの最中、私は気づいたことがあった。マイの喘ぎ声だ。
「もっともっとー」
……野球部?
発音はフラットではっきりしており、「バッチコーイ」や「ピッチャーびびってるー」と同じトーンだった。千本ノックでもしているのか。そこに艶はなかった。
そんなマイと、私は付き合うことになった。一本勝負で敗北したあとのピロートークで、マイに押し切られたのだ。敗者に拒否権はない。惚れた弱みならぬ、やった弱みだった。
もちろん、仲間たちには爆笑された。
「坂庭先輩と付き合うなんて、お前も勇者だな」
マイ名前は坂庭先輩になっていた。世界を救う勇者になっても、私の心は晴れなかった。むしろ私を救ってほしかった。
とはいえ、彼女持ちである。同じ彼女持ちの仲間からはダブルデートに誘われた。
「坂庭先輩でもいいからいっしょに行こうぜ。うちの女がうるせえんだよ」
仲間の彼女が渋谷に行きたいという。都心なんて行ったこともない田舎者だ、どんな魔物と遭遇するかわからない。ならばいっそ、こちらも魔物(マイ)を連れていこうという魂胆なのだろう。
マイを誘うと、ふたつ返事でOKだった。
「いっぱいおしゃれしていかないとね」
してくれ。そして、俺から3m離れてくれ。
デート当日、私は友達カップルといっしょに駅でマイを待っていた。
これから都内へ行くというのに、私たちは揃ってヤンキー服を着ていた。得体の知れないジャージの上下に、ハローキティの健康サンダル。仲間の彼女もまたヤンキーだった。三人ともにこのスタイルがイケてると思っていたし、私たちがたまに遠征する足立や浅草では笑われることもなかった。だいいち、普通の服を持ってない。
ほどなくしてマイが改札を抜けてやってきた。その瞬間、私たちは目を天にしていた。
真っ赤なスウェット上下に、便所サンダル。極めつけは紺のドカジャンだ。土方が着る、襟にボアのついた作業着ジャンパーのことである。
マイは完全に私たちの影響を受けていた。というより、私たちに憧れを抱いていたのだろう。自分もヤンキーみたいな格好がしたい──その思いが今日のファッションへ繋がったに違いない。ドン小西も真っ青だ。
私たちに憧れなんてとんでもない。マイは私たちをすでに超えていた。彼女はいつも私の想像を簡単に上回っていく。
「ジェイル!」
マイが手を振って駆け寄ってくる。私は条件反射で答えていた。
「違います」
「ウケるー」
今日もマイは笑っていた。その日のデートがどんなものだったか、いまも私は思い出せない。


5月になったころ、私の心はとうとう限界を迎えていた。
マイと別れたい。
彼女のことが嫌いになったとか、坂庭先輩に似ているとか、ドカジャンを着てきたとか、そういうことが問題なのではない。マイに失礼だと思ったのだ。
マイは私を愛してくれている。かくいう私はどうだろうか。彼女の想いの大きさを前にして応え切れていない。彼女にはいっしょにドカジャンを着てくれる彼氏のほうがお似合いだと思った。私にはそれはできない。
けれど、マイに別れを告げるだけの勇気がないのもまた事実だった。別れようだなんてぬかしたら、ドカジャンを被せられてボコボコにされるのではないか。マイならそれぐらい平気でやるだろう。
それに、別れを告げることでマイを傷つけてしまうかもしれない。あのころの私は本気でそう思っていた。優しさを履き違えていたのだ。
考え抜いた末に、愚かな私はまさに愚策を思いついた。
そうだ。捕まったことにしよう。
ヤンキーの私ならいつ警察のお世話になってもおかしくない。ガキの恋愛だ、塀の中に沈んだ男を待つ女なんてまずいないだろう。マイも次の恋に進んでくれるはずだ。
そうと決まれば即アクション。私は仲間たちを集めて、芝居を打つように求めた。しまいには母までをも巻き込み、演技指導した。母は「お父さんの血だね」と嘆いていた。私の父は無職だった。
役者が揃ったところで、私はマイにメールを送った。
『ジェイルの友達だけど、あいつパクられたよ』
3秒で私の携帯が鳴った。マイからの着信だった。
「ひ、ひいっ」
私は携帯を仲間にパスした。そこからは仲間が応対した。
「駅前で変なやつらと喧嘩になった」
「相手に怪我をさせてしまった」
「示談金が払えないので鑑別は避けられない」
「だから別れたほうがいい」
仲間たちが携帯をバトンにし入れ代わり立ち代わり次々に口にする。まるで劇場型。オレオレ詐欺を見ているようだった。
ところが、マイは退かなかった。私が償いを終えるまで待つことを前提にしたうえで、いまから私の家に来て今後の詳しい話し合いをしたいという。奇しくもマイは、ちょうど越谷にいた。
「どうすんだよっ?」
母や仲間たちに詰められた私は、「あとは任せた!」と居間の押し入れに隠れた。悠長に話しているあいだにマイが来てしまったら、それこそ命の保証はない。
間一髪、私が押し入れに身を隠した5分後にマイはやってきた。
「私はジェイルを待ちます。何年だって待ちます」
マイの凛とした声が響く。母親を前にしても怯まない彼女に、誰も返答できずにいた。押し入れの外はお通夜状態だった。
カオス。これがディストピアなのか。私が押し入れにいることを皆は知っている。知らないのはマイだけだ。私たちはいま、こんなにも近くにいるのに。
本人不在のつもりで話が進んでいく。マイは私の面会を希望したが、母の機転によりそれは阻止された。いまは面会が禁止されているという設定になっていた。
すると、だったらせめて手紙だけでも渡してほしいとマイは言った。私の家に来るまでに、タクシーの中で手帳に走り書きしてきたらしい。
マイ。手紙なんていらないよ。私はここにいるよ。青山テルマが歌うよりもずっと先に、私はその言葉を心の中で叫んでいた。
マイが手紙を託した、その直後だった。
「おもちゃー」
私には弟がひとりと妹が三人いるのだが、一番下の妹は当時まだ四歳だった。その妹が押し入れを開けてしまったのだ。
まばゆいばかりの光に包まれた。ようやく開かれた私の視界には、口をあんぐり開けた皆の姿が映っていた。妹だけがひとり笑っていた。
私は逃げた。迷いなんかひとつもなかった。押し入れを飛び出し、さらには玄関を飛び出し、裸足のまま全速力で駆けた。
殺される!
マイはどうなった?  走りながら振り返ると──いた!  マイだ!  私を追ってきている。
「ぎゃあああああっ!」
恐い。恐すぎる。マイは鬼の形相を浮かべていた。おまけに裸足だ。走るフォームがとても美しかった。
必死で逃げた。だが、1分もしないうちに私は捕まっていた。マイは足が速かった。
「何で逃げるのっ?」
「すいません!」
「何で嘘つくのっ?」
「すいません!」
私は土下座した。何を言われてもとにかく謝った。私にはそうすることしかできなかった。


その後、私はマイと5時間にも及ぶ話し合いをした。マイは私のことがどれほど好きかを懇々と説き、私はその間、「すいません!」と「勘弁してください!」の二言だけを繰り返した。「別れたくない!」とベアバッグをされたりもしたが、最後は逆水平チョップを二発食らって別れるに至った。
仲間たちは私を「生還者」として讃えてくれた。以降、女と別れたい仲間たちのあいだでは『○○パクられたスタイル』が空前のブームになったのだが、それはまた別の話だ。
マイ。坂庭先輩にそっくりだったマイ。野球部だったマイ。ドカジャンを着てきたマイ。足の速かったマイ。
そして、私を愛してくれたマイ。
私は君を忘れないだろう。
ブスは愛しい。

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