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育った環境、の考察からみえてくる自分という枠

やっぱり、ぼーっとしていても、ついついこれを考えてしまう。
「育った環境の“せい”」この“せい”にしている「育った環境」。
それは「自分ではどうしようもない部分」なのか、「自分でどうにかできる部分」なのか。先天的と後天的、その割合を自分で理解してコントロール出来ているか。
僕自身も、結構な頻度でお世話になってきた“言い逃れ”の常套手段。
“言い逃れ”と早々に書いてしまうあたり、僕のなかでは“そういう割合”が高いのが見て取れる。どういった場合に発動するかというと、自分が人と違う考え方や行動で迷惑をかけてしまう、相手の正しさを理解はしても受け入れきれない、自分をただひたすら守る為、正当性の主張、等にいかんなく発揮される。
そもそも、すでに僕が抱いているこの疑問に素晴らしい回答は持っている。
その答えを出して憧れる生き方をしている人達を知っているし、自分でもとっくに頭では理解していて、色々な場所で見聞きもする。
なので、わざわざここに書く必要はあるのかまず考えて、結果、“書く”ということが深い理解に繋がるので書いている。
これをいちいち説明するのが僕。考えすぎだと言われ続けてきて思う。
「考える」は間違いなく先天的。小さいころから何かにつけて考えてた。
「なんで?」がたくさん。理由はわからない。そのくせ人の話しはあまり聞きたがらないという”疑問の答えにたどり着く方法のひとつ”をすでに損している。その分、自分なりに考えて疑問の解決に向かう方法としての内省は割と得意になったかな。
そんなわけで「育った環境」を、心の底からどれだけ自分のプラスに持っていけるか、その為に自分の考え方、心の整理で書いてみる。

まず目指す理想があっての出だし。

これは簡単
生んでくれた母親、そして兄妹、家族、今までの人生に感謝して、失敗しても言い訳せず、相手のせいにもせず、けれど冷静に自分の非と相手の非を見極め、相手の非を伝える時には感情を抜きにして事実だけを伝え、考え方や感じ方の違いを感じてもそれぞれの育った違いは当然なので、受け入れ、言葉の温度も気にしつつ、相手によって伝え方を変えつつ、相手を尊重して、感謝を忘れず、、、、と、まだまだ出てくるけれど。
こんな風に思いつくのは簡単だけど難しい理想。これを考えすぎずにやれるなんて人間じゃない気がしてくる。
出来る人にとっては、当然これもいちいち文字にしたり言葉にするのは蛇足。僕は大体ひねくれて育っているので、蛇足が友達。ちなみに蛇足を簡単に説明すると“余計なこと”という意味。これもすでに蛇足(笑)
ここで心をかき乱す問題なのは、理想で書き出したことなんて意に介さず、我が道で大成している人達がいることだろう。小さな器の僕としては悩ましき問題だ。これが正解だ!と目指しながらも、また別の正解が頭をよぎり心が迷ってしまう。集中できない状態で理想に向かって失速、突き抜けたほうがいいところで、もたつき突破出来ずに壁の前で立ちすくむ。もはや持ち芸のなかでも磨き抜かれた技のひとつになっている。

「わかってるならやればいい」

いやはや、それが出来ないから困ったものだ。
足踏み、思考の再現、自分の世界に浸る、その自分を責める、その状態に酔いしれる、そんな状態でも幸せだと思えればいい。

自分がそうなのか、一旦考えてみる。

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うん、嫌だね。

かといって、即行動に移す、そこに特化できるかと言えばそうではないので、この思考を続けたいと思う。
育った環境がどこまで自分に影響を及ぼしているのか、マイナスな部分はすぐに思いつくので、敢えて、ここでプラスの部分に焦点を当てて考えてみよう。どうだろう。すぐ思いつくものではないからな。
あれこれ色々考えすぎるようになったのは間違いなく、、、って。
あっそっか!
育った環境の“せい”にするのは、人生や物事がうまくいかない時だ。
いやわかるよ。そんな当然のことを「発見した!」みたいな感じで書かれてもね、って、そんな風に思うでしょう。僕も少し思った。けど、なんでそれに辿り着いたのかが大事。

良いところを探す → 昔のことを思い出してみる → 若かった頃、と書こうとして“その書き方がなんか嫌だな、二十代って書こうかな、いや、それもな” → 今との違いを同時に考える → わけのわからない自信に満ち溢れてたな → 不遇な環境も生まれ育った状況も特別な自分にぴったりだと思っていた、若かった頃は最強だった、に辿り着く。(あっ、若かった頃って書いた)

うんうん、育った環境を大きな力に変えていたことをはっきり思い出した。
では、そんな流れで“せい”自体の意味も調べてみるかな。(そんな流れってどんな流れよ 笑)
ほうほう、所為と書くんだね。意味は…それが原因・理由であることを表す。…ほうほう。そっか、これ使われ方が悪くて、悪いイメージのことばになってしまったのか。もともとは良くも悪くもない中立な言葉だったか。
言葉の意味を知って、使い方をもっと学んでいかなきゃな。

うん、育った環境について書きたかった理由もわかった。育った環境に理由を押し付けて、人に自分の嫌だったことすらも「こうやって育ってきたから」と強制させることだ。これが自分のなかにもしっかりと根を張っている。それを押し付けるなら批判される覚悟がいる。
批判を肯定するわけじゃなく、それで責められて怒ったり、相手を責め返したりしない覚悟。僕はそうやって覚悟を持っていきていたいな。
育った環境のせいにして変えようとしない場所。それを変えるのが正解か不正解か。責任を持って答えを持てていたらいい。人生の岐路で「育った環境の“せい”」で後々振り返って間違ったと思ってしまう道にいくのか、「育った環境の“せい”」で、こんなに素晴らしい人生になってしまった、と余裕をもって”せい”という言葉とうまく付き合っているのか。

これからも、「育ってきた環境の“せい”」にして、逃げることも、自分以外の答えを否定することもある。いきなりなくなりはしない。別の人間になってみたところで、きっと僅かばかりの弱さでも、僕は見つけてしまって、そこにしがみつこうとする。知ってる。それが僕だ。
はみだすのが怖くて、それでも、小ささにがっかりして、飛び越えてしまったら、それはそれで違う景色が見れる時もある。でも、そのままじゃ自分という場所に帰ってこれないかもしれない。飛び出しながら、戻って、広げて。そうやって自分をなくさずに囲いを広げていけば、その景色をいつでも見れる気がする。

その為には、こうやって少しずつでも、心の整理と理想の確認をしつつ、日々を過ごしてくのみだな。


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