見出し画像

(読み切り短編)精霊ビオラ

(あらすじ)
 雪山で眠りに落ちる寸前、ナキアは誰かの気配を感じ取る。
 目を開けると、そこには見たことのない少女が立っていた。
 ナキアは眠気をこらえながら、少女に身の上話をする。
 話の最後で、ナキアは少女に最後の願いを託す。
 願いを聞き届けたビオラと名付けられた少女は、吹きすさぶ雪の中に姿を消す。
 そして幾星霜が過ぎ去った春の日。
 誰からも忘れられた山の洞窟の近くには、小さな紫色のスミレが一面に咲き誇っていた。


 眠りに落ちる瞬間、ナキアは何かの気配を感じ取った。

 寒さと空腹と眠気をこらえ、ゆっくりと瞼を開く。

 風にさらわれそうな吹雪を背にして、ナキアの前に、見たことのない少女が立っていた。
 雪と見間違えそうなほどの長い白銀の髪。白い布を幾重にも巻いただけの簡素な服。肌までも白い。

 不思議な思いで見つめるナキアとは対照的に、少女は無表情にナキアを見つめている。
 もうろうとした意識の中、ナキアはふと不思議に思う。

 こんな子、いたかな?

 考えようとするものの、眠気に負けてナキアの頭は考えることを放棄する。
 二人の少女は無言で見つめ合う。
 その間に、ナキアの疑問はゆっくりと答えに変わっていった。

 この子はきっと、山の神様が遣わせた精霊なんだ。

 村の大人たちや子供たちの中には時々、山の神様や精霊を見たことがあると言う人がいた。
 姿形は人それぞれ言い分が違っていたけれど、ナキアは「そういう存在がいるのだろう」と信じていた。
 今、この瞬間まで、そのような存在を見たことはなかったけれども。

 目の前の少女が山の精霊と考えたナキアは、少しだけ元気を取り戻した。そして、相変わらず無表情で突っ立っている少女に向けて微笑んだ。

「初めまして。あなたは誰?」

 しかし少女は首をかしげるばかりで、何も答えない。
 寒さで唇がくっついてしまい、口が開かない。それでもナキアは、心の中で少女に問いかける。

「どうしてここにいるの?」
「……わからない」

 少女の口は動いていなかったが、ナキアの心の中に直接、少女の言葉が伝わってきた。
 それでナキアは、やっぱりこの子は精霊なんだと納得する。

「お迎えに来てくれたの?」

 ナキアが問いかけると、少女は小首をかしげる。

「お迎え?」

 少しの寂しい気持ちと苛立ちを覚え、ナキアは再び少女に問いかける。

「違うの?」

 少女はナキアをじっと見つめたまま、長い時間考えていた。
 ナキアがまたも眠気に負けそうになったとき、不意に答えが返ってきた。

「あなたが、願ったから」
「願った? ……私が?」

 少女がうなずく。

「私、何か願ったかな?」

 今度はナキアが小首をかしげた。かしげようとした。
 すでに全身が動かない。指一本、ほんの少しでさえも。
 不思議な気持ちでナキアが少女を見つめていると、またもぽつりと言葉が投げかけられた。

「生きたことを、覚えていてほしいって」

 ほんの少しの間、ナキアは少女の言葉の意味が理解できずにいたが、すぐに、ああ、そうだと納得した。
 確かに自分は、自分が生まれ、生きたことを、誰かに覚えていてほしいと願った。
 ナキアの生まれた村では、ナキアのことを知る人たちが生きている限り、忘れられることはないだろう。

 しかし、彼らはいつか死ぬ。
 死ねば、ナキアが生きた記憶は失われる。

 それは嫌だな、と思った。
 ナキアという女の子は、確かに生まれ、生きた。それを誰かに覚えていて欲しいと願った。

 できることなら、永遠に。

 薬を飲まされる前にそんな願いを抱いたことを、ナキアはかろうじて思い出した。
 だとしたら。
 やっぱりこの子は精霊か、神様のお使いなのだろう。

 ナキアは動かない表情の代わりに、心の中で少女に向けてにっこりと笑いかけた。

「ねえ、あなた。そばにおいで。お話ししましょう」

 ナキアが呼びかけると、少女はうなずいた。
 ナキアの隣にやって来て腰を下ろす。
 外では相変わらず、猛烈な吹雪が吹き荒れている。しかし、ナキアの心は少しだけ温かくなった。
 少女が隣に座ってくれただけなのに、変なの。
 でも、嫌じゃない。
 嬉しい。

「ねえ、あなたは山の神様なの? それとも精霊様?」

 ナキアが再び問いかけるものの、少女は「わからない」とだけ答えた。
 やや間を開けて、再び答えが返ってきた。

「私は、自分が誰で、何のために生まれたのか、わからない。どうしてここにいるのかもわからない」

 ナキアには、自分が誰で、何のために生まれ、生きて死んでいくのかを覚えてくれている人々がいる。
 しかし、少女にはそれがない。
 胸がきゅっと締め付けられる感覚をナキアは覚えた。

「寂しいね」
「……寂しい?」

 少女がナキアの顔を覗き込みながら尋ねる。
 ナキアも同じように、少女の目をまっすぐに見つめながら答える。

「うん。私たちは生まれたときに親から名前をもらって、大きくなる間に自分が生きる意味を少しずつ考えて、この大地で生きていくんだよ」

 少女は少し視線を外したが、すぐにナキアに戻す。

「……難しい。わからない」

 少女が無感情に答える。
 ナキアはすでに動かなくなった腕ではなく、透き通る腕をゆっくりと動かし、少女の白銀の髪をそっと撫でる。

「それじゃ、私があなたに名前をあげる」
「名前?」

 不思議そうに尋ねる少女に微笑みを返し、済んだ紫の瞳を見つめながら、ナキアは考える。
 見つめるうちに、ナキアは少女の瞳の色を、かつて見た光景と重ね合わせていた。
 少しずつ記憶を手繰り寄せ、記憶と言葉が一致したとき、ナキアの奥底から一つの言葉が湧き起こる。

「……ビオラ。あなたの名前は、ビオラよ」
「ビオラ?」

 少女が不思議そうな顔で尋ねる。

「うん、そう。……私の故郷では、夏になると、ロゼットビオラっていう名前の、紫色の小さな花が咲くの。私はその花がとっても大好きだった。だからその花の名前を、あなたにあげる」
「ビオラ……。私の名前……ビオラ」

 ビオラと名付けられた少女は、何か不思議なもののように、何度も自分の名前をつぶやく。

「うん。ビオラ。あなたの名前。……それでね、ビオラ。あなたにお願いがあるの」
「お願い?」

 ナキアはうなずく。

「あなたには、私が生きたことを覚えていてほしい。ナキアという女の子が、かつてこの大地に生まれ、生きて、死んでいったことを、ずっとずっと、覚えていてほしいの」
「死ぬって何?」

 ビオラがナキアに問い返す。
 ナキアは透き通る手でビオラの頬に触れる。
 穏やかな微笑みを浮かべ、ナキアはビオラに自分のことを語り始めた。

「私はね、山の神様に捧げられたんだ。村の大人たちは生け贄って言っていたけれど、私は違うと思う。だって山の神様は、ビオラを遣わされたんだもの。だから私は、ビオラと一緒に山の神様のところへ行くよ」

 ビオラは自分に言い聞かせるように、ナキアの言葉を繰り返す。

「私は、ビオラという名前をくれたナキアが生まれ、生きたことを、きっと忘れない」

 ナキアは微笑み、大きくうなずいた。

「ありがとう。私のことはビオラが覚えていてくれる。だから私は、死ぬことは怖くないよ」
「死ぬことは、怖い?」

 ナキアは、哀しい微笑みを浮かべて深くうなずいた。

「……正確には、怖かった、かな。私が生きたことを、いつかは誰からも忘れられてしまうと思ったら、怖かった。けれどビオラが覚えていてくれるから、怖くなくなったよ」
「良かった」

 ビオラがそっと腕を動かし、ナキアの肩を抱く。
 すでに動かない少女の体を、自分のほうに抱き寄せる。

「うん。……ありがとう、ビオラ。最後にあなたに出会えて、良かった」

 ナキアは、ビオラの髪を撫でていた透き通る腕をゆっくりと離し、自身の膝を抱え、そこに頭を乗せた。

「でも……ごめんね。さっきからとっても眠いんだ。それに、誰かに呼ばれているみたいなの。ビオラとお話ししていられるのも、もう限界みたい」

 ナキアの透き通る体が宙に浮かび、ゆっくりと消えていく。
 ビオラはその様子を、一瞬たりとも見逃すまいとする強い眼差しで、じっと見つめている。
 消えてしまう間際、ナキアがビオラに手を振った。

「さようなら、ビオラ。元気でね」
「さようなら、ナキア」

 ビオラには、さようならの言葉の意味はよくわからなかった。ただナキアがそれを口にしたから、返した。
 それだけの感覚だった。
 しかしビオラの胸の内には、ほんの少しだけれども、ぽっかりと穴が空いたような、あるいは小さなトゲが刺さったような痛みが湧き起こった。

 外ではごうごうと吹雪が荒れ狂っている。洞窟の中には、ナキア以外に何人もの少女たちが、ナキアと同じように動かずにいる。

 生まれ、生き、死ぬ。
 だから、生きたことを覚えておいてほしい。

 ナキアの残した言葉の意味を、ビオラは長い時間考えていた。
 やがて何かを決意し、ビオラがゆっくりと立ち上がる。
 隣には、かつてナキアと呼ばれた少女の、永遠に続く安らかな寝顔があった。
 その顔には悲愴さはない。むしろ、どこか満ち足りたような微笑みを浮かべている。
 ビオラは自分の胸に手を当て、別れの言葉を告げる。

「さようなら、ナキア。ビオラという名前と、あなたが生きたことを、私は忘れない」

 紫色の瞳は少しの間、ナキアを見つめていたが、やがて踵を返し、吹雪の中へ足を踏み出した。
 ビオラの姿は、一瞬で吹雪の中に消えた。

 永遠に近い時が流れた。
 人々の記憶から、かつてナキアと呼ばれた少女の名前と、彼女が生きた記憶は失われた。
 しかし、毎年夏が来ると、誰からも忘れられた洞窟の入り口には、まるで何かを思い出させるかのように、淡い紫色の花をつけた小さなスミレが咲き乱れる。

 完