那智勝浦町昔懐かし話 第59話


            第59話『那智ユースホステル』
 
はい、中々のハイベースでの更新であります。誰ですか、もうそろそろネタもつきてきたやろと、言うのは。大丈夫ですよ。毎日トイレに入ったときなど、昔の事を考えてるとふと「あ、そうや、こんな事もあったな」と思いだし、トイレから出た後メモに書いて今読んでいる本に挟んでおくのであります。そのメモがまだありますので、まだまだ書きますぞ。今年の初めに100話今年中に書く決意をしたので、後世に伝える遺言みたいに書き続けますよ。それが観光の仕事に就いた僕の使命だと最近つくづく思うのであります。 だからただ書くだけでなく、これを本みたいに形にしてやるとか、新聞に載せてやるとか思われた方いらっしゃいましたら遠慮なく観光協会までご連絡ください。ということで今回も長々と前置きを書きましたが、今回は初めて書くと思いますが、僕の中学校の時の話もあります。でわでわ第59話であります。
 
「なあ、いさお君今度の日曜日なべっちとこ遊びにいかへん。タコちゃんとナカシャも誘って、なべっちキーボーこうたらしいで。 」いさお君というのは、僕が那智中学校に入学し入学式の時名前に吉が付いたので、僕の前に並んだのきっかけで(ほんま子供の時は変なことがきっかけとなり友達になるもんです)僕から「同じ吉が付くんやね、どこの小学校から来たん」と話しかけたことで意気投合しそれから今まで約40年親友である。那智中学校は、町内のいくつかの小学校の生徒が集まってきており、いさお君は市野々小学校出身で那智山からバスで通っていた。野球部で坊主頭で昔はやったガリバー君みたいな顔の奴だ。あとナカシャとタコちゃんはおなじみの僕との3バカトリオ。そしてなべっちだが、ちょっと事情があり幼稚園の時から太地より勝浦へ通っていた奴である。なべっちとは僕たち3バカトリオは幼稚園の時から友達であった。なへっちの家は那智勝浦町の隣の太地町の平見という景色の良いところにあり海も見える。そこでご両親は、太地ユースホステルを営んでいた。皆さんはユースホステルというものをご存じだろうか。僕のパソコンのアホーによると、青少年の徒歩旅行、自転車旅行のために簡素、清潔、廉価な宿泊施設のこと。青少年の自然との触れあいや、国境、人種、宗教なとを越えた相互交流の機会を提供することを目的としている。とある。だからなべっちの家は2階建てでお客さん用の部屋が16部屋あり、そのほかにご両親の部屋、なべっちの兄弟の部屋が3部屋と食堂やお風呂そして廊下には卓球台もあった。僕らはたまに日曜日に自転車に乗り太地の平見まで遊びに行って卓球とかしてたのである。午前中の内に行くとお母さんがお客さんに出す昼ご飯のカツ丼とかを僕らの分も作ってくれて食べさせてくれたりもした。絶品だった。ある日僕らは、音楽好きのなべっちが買ったキーボードを見になべっちの家に行き、キーボードを弾いたり、その頃弾き始めたギターとギターでのベースとキーボードとボーカルでバンドごっこをしたりした。なべっちの家のユースホステルも平成21年の6月のまで続いたが残念ながら閉館した。そして実はここからが本題なのだが、我が那智勝浦町にも昔ユースホステルがあったのである。場所は那智駅から那智山へ向かう県道の入り口すぐ、補陀洛山寺の隣りにある渚の森公園の場所である。
 
僕が平成5年に観光協会に入社したときは、まだその建物が残っていたが営業はしていなかったと思う。名前は正式には和歌山県 那智ユースホステルで、昭和34年6月営業開始と記録に残っている。おそらく30年くらいの営業だったのであろう。僕が観光協会に入ったときは、たしか建物の一部を観光協会のイベントの物品の倉庫に使っていた。この建物の側には、熊野古道の振り分け石がある。この振り分け石は、紀伊半島の西側を海沿いに進む大辺路、紀伊半島の東側を海沿いに南下する伊勢路、そして田辺、本宮、那智を結ぶ中辺路の分岐点を示す道標である。今もこの振り分け石は残っている。ただ、那智ユースホステルは、解体されその跡地は整備され渚の森公園となっている。これも時代の流れか。那智ユースホステルはおそらくたくさんのお客さんを迎え、様々なドラマが生まれたのだろう。那智勝浦町の良き思い出である。
 
第59話 終わり

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