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失せ物

 ないねえ、と駅員に言われた。言い慣れているのか、その一言には駅員の顔に刻まれた無数の皺のような年季が入っていた。僕は、そうですか、と答えて、忘れ物取扱所を出た。
 鍵がない。そう気づいたのは電車の中だった。ジャケットのポケットに入れていたはずの鍵がなかった。酒にやられた頭の中で、焦りが火花のように飛び散った。もう片方のポケットには財布と携帯電話があった。鍵を探さなければ、と考えたものの、財布に予備の鍵を入れていたのを思いだして、その日は予備の鍵で部屋に入った。翌日になって、やってしまった、という後悔はあるものの、最初のような焦りはなかった。おそらく鍵を落としたのは駅の周辺か構内だ。大きい駅ほど人通りが激しく、人通りが激しいほど拾われる可能性が高いはずだ。大丈夫、きっと見つかる。その考えが甘かった。大きい駅ほどお店や鉄道会社が多く、その数だけ落し物が届けられる場所が増える。たとえ鍵が拾われたとしても、それが届けられた場所と出会えるのはよほど運がいい人だろう。どうやら僕には運がないようで、鉄道会社の忘れ物取扱所はあと一か所しかなかった。そこになければ駅の中にあるお店や駅の周辺にある交番に届けられたのか、そもそも拾われていないのか、そのどちらかになる。
 改札を出たところで、ジャケットのポケットが小刻みに震えた。携帯電話を出すと、二宮の名前が出ていた。僕は近くにある柱にもたれて、電話に出た。
「鍵、あった?」
 僕は、ないよ、と答えた。やっぱりな、と二宮が言った。にやりと笑う顔が手に取るようにわかる声色だった。
「俺が言ったとおりだろ。俺も財布落としたとき駄目だったんだ。鍵なんて無理だって」
 だな、と僕は答えた。どの駅員も言葉の選択が違うだけで二宮と同じことを言っていた。
「これを機にバッグを買うんだな。なくすのは記憶だけでいいだろ?」
 小馬鹿にするような口調につい苛立って、僕は沈黙した。昨夜の電話で知ったのは、あの日、泥酔した僕は駅前まで付き添ってくれた二宮に礼を言わず、勝手に激怒しながらひとりで帰ったということだった。この電話のあと、僕は二宮と行った店に電話したものの、その店に鍵はなかった。駅までの移動中に落としたのか、駅の構内で落としたのか、思いだそうとしても、その部分だけ記憶がなかった。
「まあ、そう落ち込むなって。また飲もう」
 ああ、と答えて、僕は電話を切った。
 交番を出ると、街が灰色の光を浴びているようにみえた。人も、車も、物音も、昼間の賑やかさと変わらないはずが、どこか沈んでいるように感じるのは、空に昼間のような爽やかさが欠けているせいかもしれない。
 風が、きりりと冷たい。携帯電話を見ると、午後四時をまわっていた。やれることはやった。それでも見つからないのだからすっぱりと諦めるしかない。横断歩道の前で立ち止まりながら、僕は苦笑してしまった。落とした鍵が恋しくなっていた。たかが鍵なのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう。あの鍵がなければ、引っ越しの際に鍵の交換として二万円近い金額を支払わなければならないからだろうか。
 白い物体が横断歩道の隅でゆらゆらと揺れていた。見ると、レジ袋だった。どうやら車が通るたびに浮き上がっているようだった。レジ袋が落ちようとすると車が通り、浮き上がって落ち始めると車が通って、また浮き上がる。ようやく横断歩道の上に落ちると、僕の周りにいた人々が一斉に歩き出してレジ袋を踏みつけた。僕はレジ袋を避けて横断歩道を渡った。駅前に着くまでの間に、たくさんの物が落ちていた。煙草の吸殻、レシート、十円玉、イヤホン、片方だけの手袋、駅前で配っていたポケットティッシュ。これらが捨てられたものなのか、ふいに落ちたものなのか、僕にはわからないが、はっきりとわかるのは、これらが失せ物ということだけだった。
 どこかで救急車のサイレンが鳴った。いつか僕がなくすのではなく、僕がなくされる日が来るのだ。近づいてくる救急車のサイレンを聞きながら、そう痛感した。僕の存在が、この世からなくなる日。肉体だけでなく、人々の記憶から僕がなくなってしまう日。それは怖いというより寂しかった。自分では色々となくすくせに、いざ自分をなくされそうになると寂しいと思うなんて、どう考えてもわがままだ。ただ、それを自覚しているから、なくしたときには痛みを覚えて、なくされそうなときには必死になって足掻けるのだろう。そう考えると、寂しいの一言はわがままではなく、とても自然な一言のように思えた。
 救急車が通り過ぎて、僕はジャケットのポケットに手を入れた。ポケットには財布と携帯電話と予備の鍵があった。僕は思わずほっとして、ゆっくりと歩き出した。〈了〉

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