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描写

 つまらない。

 そう言われる作品になると思いつつ、僕はパソコンと向き合った。キーボードの上で、指はじっとしたままだ。部屋が寒いせいではない。物語を書こうとするせいだ。だから、ありのままを書くことにした。これが小説なのか、と問われれば、小説です、と即答する自信はない。そもそも小説と作文の違いは何なのか、僕は今でもよくわからない。

 キーボードを打つ手が止まった。大家さんの笑い声が床を突き上げてくる。さっきから大家さんの息子の声がうるさい。箸を持ち損ねて床に落ちた、という話を、あんな大声で、いかにも面白いでしょ、と子供のような自信を漲らせながら話していた。一体、どこが面白いのだろう。大家さんの笑い声がまた床を突き上げた。七十歳近い老婆とは思えない、はきはきとした笑い声。その声につられるように、大家さんの息子の声が大きくなる。四十歳をこえているとは思えない、早口で、一方的にぼそぼそと喋る声。

 遠くで救急車のサイレンが鳴った。大家さんとその息子が大声で笑った。キーボードの音が止まり、しばらくしてから、また細々と、かたかたと音を立て始めた。

 大家さんの息子は体が弱いらしく、会社を辞めて実家に戻り、大家さんと二人で暮らしている。家賃を渡す際に大家さんからそう聞いた覚えがある。体が弱いくせに病院が嫌いで、大家さんに何かと甘える。ほら今も、食べさせて、と、ぞっとする一言が聞こえた。

 手ごろな家賃で、部屋もそれなりに広く、アパートの周りも隣人も静か。唯一の欠点が、大家さんとその息子の賑やかさだった。遊びに来た友人に、隣の部屋うるさいね、と言われるほどで、この声、下なんだよね、と答えると、マジで、といつも驚かれる。慣れないのだ。電車も、鴉も、バイクも、どんな騒音も、そのうち街の表情の一つとして慣れるはずが、人の声は、それも幸福そうな声は、どうしても慣れない。笑い声ひとつで床を殴りたくなる。

 僕は気休めにコーヒーを飲んだ。白い息がパソコンの画面に触れて、消えた。床下から笑い声が響いた。

 つまらない。

 この場を描写しながらそう思う。推敲しようとも思わない。悔しいが、これが今の僕だ。〈了〉

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