【水清ければ魚棲まず】
── あまりに清廉すぎると、かえって人に嫌われる ──
江戸時代の後期、老中となった田沼意次はおおっぴらに賄賂を取り、賄賂を渡さないと何もしてくれない政治を横行させたが、やがて失脚するはめに陥った。
次に老中となった松平定信(まつだいら・さだのぶ)は、意次の政治への反省からか、今度はやたら清廉な政治を行った。それはいいのだが、あまりにも清廉すぎて、民衆は堅苦しくてしかたない。
白河の 清きに魚の棲みかねて
もとの濁りの 田沼恋しき
と狂歌で揶揄するまでなったことは有名な話だ。
この狂歌のもとになった言葉が、「水清ければ魚棲まず」である。
話は中国の後漢の時代まで遡る。
そのころ、班超(はんちょう)という人がいた。
後漢の時代は中国に世界で初めての大学が作られたり、ローマ帝国から使者が来たりと、中国が物心両面に渡って充実していたときであり、それだけ西へ南へ、冒険の旅に出る人も多かった。
班超(はんちょう)もその一人で、西域、今で言う中央アジアへ行き、くわしいいきさつは省くが、そのあたりで割拠して戦争を繰り返していた諸国を平定し、あたり一帯の総督にまでなった。
西域にいること30年。年もとってきた班超(はんちょう)は、「願わくば生きて玉門関(ぎょくもんかん・中国の西の玄関口)を越えん」と辞職することにした。
後任の総督は任尚(じんしょう)という男であった。
西域の広い地域を一人で平定した実績のある班超(はんちょう)とは違って、任尚(じんしょう)は何かことが起きたさいにうまく対応できるかどうか自信がなかった。
そこで先輩でもあり師でもあった班超(はんちょう)に、「どうすればこれだけの広い地域をあなたのようにうまく治めることができるのでしょうか」と教えをこうた。
そのとき班超(はんちょう)が教訓として授けたのが、「白河の清きに魚の棲みかねて‥‥」の元となった言葉である。
「君はけっこう厳しい性格をしている。水清ければ魚棲まず、だ。何もかも自分の思い通りにやろうとはせず、多少意にそわないことでも大目に見て、あまりうるさく言わないことだね」
任尚(じんしょう)としては、なにか想像もつかないような秘訣をさずけてくれるのではないかと期待していたのだが、案に相違してそれほど大したことではなかったのでがっかりし、後で「なんだ、当たり前のことじゃないか」とつぶやいた。
だが、任尚(じんしょう)はその後、総督として失敗し、西域はその平和を失った。
班超(はんちょう)は任尚(じんしょう)の性格をよく知った上で、彼にとってもっとも大事なことを教えたつもりだったのだが、任尚(じんしょう)はその大切さが理解できなかったのである。
会社だって国だって、組織を構成しているのは感情も好みもあるひとりひとりの人間だ。上の方針が細かいところまで明確に下に伝わらないと、下にいる人間は動きにくくてしょうがないものだが、かといって、あまりに細かすぎてガチガチになっていては、動こうにもかえって動けなくなってしまう。
そこらへんのバランス感覚を持っている人が会社でも上司でいてくれたら本当にやりやすく、力も発揮できるのだけど、実際にはめったにいないんだよねぇ、これが。
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