【端午の節句】(たんごの せっく)
── 五月五日のこと ──
現代の日本では、節句とよばれる日は三月三日の桃の節句と五月五日の端午の節句の二つしかないが、本当は一年に五つある。これを五節句(ごせっく)といい、
一月七日 人日(じんじつ)
三月三日 上巳(じょうし)
五月五日 端午(たんご)
七月七日 七夕(しちせき)
九月九日 重陽(ちょうよう)
と、それぞれ名前がついていて、やるべき行事や特別に食べるものなどがそれぞれ決められている。
もともと中国には、奇数で月と日が同じ数字になる日は特別の日であるとする考えがあったので、それが節句という形に発展したものらしい。一月だけは一日ではなく七日にずれているのは、一日には正月行事をおこなわなければならなかったからだろう。
ただ数字合わせだけで決められただろう五節句だが、しかし端午の節句だけは、なぜ五月五日なのか由来が伝えられている。ちなみに「端午」は、「端」がはじめのという意味で、「午」は五と同じ。つまり二つ合わせて5月初めの5の日のことを指す。
中国の戦国時代、楚(そ)の国に屈原(くつげん)という詩人兼大臣がいた。
楚の近くには後に天下を統一する秦(しん)があり、日々強大になりつつあった。屈原以外の他の大臣たちは、日々強大になりつつある秦に恐れを抱き、「今のうちから秦(しん)と仲良くしておいたほうがいい。いや、家来になってもよい。それが楚(そ)の生き残るもっともいい方法である」と考えていたが、屈原(くつげん)だけは、「いや、この楚(そ)が天下を統一するほどの強い国になることこそ、唯一の生き残る道である」と主張していた。
屈原が目障りでしょうがない論敵たちは王に屈原の悪口をあることないこと吹き込んで、とうとう屈原を追放させることに成功した。
要するに派閥争いに負けたわけだ。
正しいと信じ、国のためによかれてと思っていたのに追放されてしまった屈原はさぞ悔しかったろう。
屈原は追放された地でやつれ、枯れ木のような体で歩いていた。それに気づいた年寄りの漁師が、
「どうしたのですか。ずいぶんやつれていなさるようだが」と声をかけた。
「やつれるのも無理はありませんよ。私は追放された身なのですから」
「そうだったのですか。何か罪を犯したのでしょうかな」
「いえ、そうであったのなら、これほど絶望することもない。私が追放された理由は、周りには自分のことしか考えていない者ばかりだったのに、私ひとりだけが国全体のことを考えたということだけなのです。そんなことが追放されるたったひとつの理由だったのですよ。世の中、濁っているとしか思えません」
漁師は、屈原(くつげん)の顔をじっと見て、やがて言った。
「世の中は、そこに流れている川の流れと同じですよ。澄んでいるときもあれば濁るときもある。澄んだら飲み水にすることもできるでしょうが、濁っていたら飲めませんから、そんなときは足でも洗うのに使っていればいいのです」
つまり、生き方は周囲に合わせておけばいい、というのである。
屈原は、しかしそれを聞いてさらに絶望した。
「周囲に合わせて自分の信念をころころ変えられるということこそ、濁っているということではありませんか。こんな美しい風景の中で生活しているあなたでさえ、そんなことを平気で言うとは、どうやら、濁っているのは宮廷の中だけではなく、世のすみずみまでがそうらしい。もうこんな世に生きていたくない」と、汨羅(べきら)の淵に身を投げて死んでしまった。
後年、屈原の霊をなぐさめるために、日本でいえばチマキにあたるような食べ物を汨羅(べきら)の流れに投げ入れるようになった。
そして屈原(くつげん)が死んだのが五月の五日だったので、この日を端午の節句とし、さまざまな行事を行うようになったのだという。
もっとも、屈原が汨羅(べきら)で死んだのは事実だが、それが五月五日だったという証拠はどこにもない。おそらく後世に擬しただけだろう。
なお、この「汨羅」という地名は、正義が通用しないことへの憤りを表す言葉として、「汨羅の淵」とか「汨羅の涙」などと使われることも多いので、覚えておいたほうがいいかもしれない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?