西施

【ひそみに ならう】

 ── よしあしの区別なく他人のまねをすること ──

 戦国時代、西施(せいし)という絶世の美女がいた。後年の楊貴妃(ようきひ)と並んで中国史上の二大美人というから、クレオパトラの合わせて世界三大美人に数えられるほど美しい女性だったらしい。
 そんな女性を愛人にすることができた男性の幸福はうかがい知ることのできぬほど大きなものなのだろう。私には経験がないのでよく分からないが。
 西施は、男性のそのような性質を利用するために、越の王・勾践(こうせん)から、敵対する呉の王・夫差(ふさ)に献上された女性だった。
 西施が来てからというもの、夫差はこの美女にすっかり心を奪われ、目覚めてから眠るまで終始西施の側を離れず、やれ西施が笑ったといっては喜び、西施が歌ったといっては聞きほれるといったありさまで、政治はほったらかし、経済はむちゃくちゃ。軍事には目もくれない。
 当然、国民の心は離れ、支持率は大幅に低下する。そうなってさえ、国境近くに異民族が侵攻してきたとの報告にも耳を貸さず、やっぱり西施、西施と夢中になっていた。

 こんな状態だから、国力はみるみるうちに落ち、ころやよし、と見はからって、越の勾践(こうせん)が攻め込んだときには、ほとんど抵抗らしい抵抗も受けないまま、あっさり滅ぼすことができた。勾践の作戦は、みごと図に当たったのである。
 ここから、あまりにも美しい女性を、城を傾け、国を滅ぼすという意味で、「傾城・傾国」(けいせい・けいこく)というようになった。

 男たるもの、女性を好きになってはいけないとは言わないが、あまりにも溺れてしまうのは見苦しいことであるぞよ、という教訓になっている話である。
 が、この話、実話ではあるものの、男性の側からだけしかものをみていない。なまじ美人であったばかりに、政争の道具として使われることになった西施(せいし)の幸福は誰も考えてないのである。ここらへんに、どうも男という生き物の身勝手さが現れているような気がする。

「ひそみにならう」のことを書いていたはずが、変な方向へ行ってしまった。話をもとにもどそう。
「ひそみ」というのは、眉根をちょっと寄せることである。眩しいときとか気分がすぐれないときなど、誰でも無意識にやってることだ。

 西施(せいし)があるとき、ちょっとした病気になって、郷里で静養したことがある。このときの病気がなんだったのかはよく分からないのだが、一説によると胸の病、つまり軽度の肺病だったともいうし、心配事、現代でいうノイローゼ気味だったためともいわれている。いずれにしても気分がすぐれているはずがない。
 そこで知らず知らず、胸を抱いて顔をしかめた。
 その動作と表情が、なんともいえず美しく、また色っぽかった。男性のハートにどかんと衝撃を与えたばかりではなく、同性である女性の目にも、可憐で風情を含んだものに映った。
 そこで、なんとかその美しさを自分も体現しようと、別に美しくもなく、ありていに言ってかなり不細工な顔立ちの女性までが、こぞって胸に手を当てて、溜息をつき、眉根にしわをよせる練習をしたという。

 きれいな人がうれいを感じさせる表情をするからますますきれいになるのであって、これは誰がやってもそうなるというわけではない。そうではない人が表面だけまねてもこっけいなだけで、中にはよけいみみくくなってしまった人もかなりいたに違いない。
 ここから、自分に似合うかどうか考えることなく、ただ表面だけを真似することを「ひそみにならう」と言うようになったのである。
 この話は女性が対象になっているが、なに、男性だってそうたいして違うものではない。
 それが悪いというわけではないが、他人がやることを真似するだけではなく、もう少し自分らしさとはなにか、を追求する姿勢があってもよいのではないだろうか。

 この話の出典は「荘子」(そうじ)の「天運篇」(てんうんへん)。
 実際にこの言葉を使うときには、仕事などで褒められたとき、「いや、私は部長のひそみにならっただけでして」というふうに謙遜して使う。そうすると、引き合いに出した相手のウケがよくなるのである。

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