木鐸

【木鐸】(ぼくたく)

 ── 世に警告を発したり、教え導いたりする人 ──

「新聞は社会の木鐸(ぼくたく)だ」という言葉を耳にしたことがあると思うが、この「鐸」(たく)は鈴のこと。
 普通の鈴はラッパ状の本体の内側に金属の舌(ぜつ)がぶら下げられていて、この舌が内側から本体に当たることで鳴るようになっている。「木鐸」(ぼくたく)は、その舌が木でできているところが、普通の鈴と違うため、音色が柔らかいのが特徴らしい。聞いたことはないが。

 このような鈴は、周の時代に、役人が民衆を集めて法律や決まり事を述べる際に鳴らしていた。
 当時の人たちは、この鈴の音を聞いただけで、自分たちを律する、いや、たてまえとしては社会をよりよくするための法律が新しく発布されることが分かったのである。
 ここから、世の人に広く警告したり、正しく導くために発される音、あるいは意見を言う人、という意味になった。
 周の時代の政府は、それほど国民から信頼されていたのだろうか。それとも、木鐸(ぼくたく)を鳴らしていたほうが勝手にそんな意味付けをしたのか。

 その周の国も滅んでしばらく後のことである。
 論語で有名な孔子が、衛(えい)の国の国境を通りかかったことがある。
 その直前まで、孔子は衛の政策立案者に仮採用されていて、その試用期間の間、様子を見てもしうまくいくようなら本採用してあげましょうということだっただが、孔子のやることがあまりに理想的にすぎたのかどうもうまくいかず、結局孔子の本採用は見送られ、孔子は再び就職先を求めて諸国を遍歴しなければならなくなったのであった。
 孔子に限らず、諸子百家とよばれた政治思想家たちは、どこかの国の顧問になりたくてあちこちの国を訪ね歩いてものだが、しかし他の思想家はたいていどこかの国に採用されたものの、孔子だけは一度もまともに就職できたことがなかった。
 後の世では中国だけではなくアジア全体の思想的バックボーンとなる孔子も、どうにもかたなしである。
 それにしても就職できないと給料も入ってこなわけで、給料もなしで、どうやって一緒にいた弟子たちに飯を食わせていたのか。そのことについては現在でもよく分かっていない。

 それはともかく、衛(えい)の首都を離れて国境にさしかかったとき、国境警備をしていた役人が事情を知り、弟子たちに声をかけた。
「お弟子さんがた、あなたがたの師が職を失ったことくらい、気にしないでください。この世の中に正しい道がなくなってしまってもうずいぶんになります。今では正しい道とはどんなものか、それを知る人さえいなくなっているしまつ。こんどの一件は、あなたがたのお師匠さんの見識を、ただ衛(えい)の国のためだけに使うのを天がお許しにならなかったという証拠ですよ。天はまさに先生をして、天下の木鐸(ぼくたく)としてお使いになろうとしているのです」と。
「論語」(ろんご)の「八佾篇(はついつへん)」に載っている話である。書いた側が載せているのだから、かなりの程度エエカッコにしてあるだろうが。

 新聞やその記者を「木鐸」(ぼくたく)と言うようになったのは、明治時代の新聞記者がこの話をもとにして、天下に警鐘を鳴らす者という意味で自分たちを呼び始めたのが最初だ。
 それにしても、自分たちを孔子さまになぞらえるとは、気負っているというのか、自信過剰というか、いや、たいしたものです。


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