尾生の信_画像

【尾生の信】(びせいの しん)

 ── 愚直なこと ──

 昔、尾生(びせい)という若者があった。
 背はそれほど低いわけでもないが、かといって高くもなく、顔もべつにいい男というほどでもない。家は、貧しくはないものの、さほど裕福でもなく、学歴は低い。
 ただ心根はやさしく、正直なことは他にひけはとらなかった。もっとも、正直というより実直。いや、バカ正直といったほうがより正確だったかもしれない。が、幸いなことに、そんなものは外からは見えやしない。
 要するに、あまりサエない男だったのである。そのためか、尾生(びせい)はあまりモテなかった。好きな娘はいたのだが、町内でも評判の美人だったので、尾生(びせい)にとっては手の届かぬ高嶺の花。デートに誘うことさえできないでいた。

 ところが、ある日、いきさつはよく分からないのだが、デートの約束を取り付けることに成功したのだ。
 相手の女性が尾生(びせい)のやさしさを見抜いたからなのか、それともただの好奇心でオーケーしたのか。ともかく成功したのだから、そんなことはどうでもよろしい。
 尾生(びせい)のよろこび、いかばかりのものであったろう。
 デートの場所は、川原。流れる水面(みなも)でも眺めながら恋を語ろうというプランである。サエない尾生(びせい)にしてはなかなかロマンチックなことを考えたものだ。

 その日が来るのを指折り数えるようにして楽しみにしていた尾生(びせい)は、当日、約束の時間よりかなり早く川原に来た。その日は尾生(びせい)の心とはうらはらに、どんよりと曇っていたが、彼女が来るのを待ちこがれる男は、そんなことは気にならない。会ったらどんなことを話そうかとか、彼女が来たときには隠れていて、突然現れてびっくりさせてやろうかとか、そんなことばかり考えている。ここらへんは時代が変わっても変わることのない男性心理である。

 そんなふうにあれやこれやと思いをめぐらしているは、時間は思いのほか速く過ぎ去っていくものだ。それでも彼女はなかなか現れない。まだ時計というものがなかった時代だから、正確な時間は分からないが、どう考えても約束の刻限は過ぎているはずだ。
 --もしかしたらスッポかされたのか。
 と尾生(びせい)の心にかげりがでる。
 --いや、女性というものは出かけるに際していろいろと手間取るものだ。初めてのデートに何を来ていこうか迷っているのかもしれない。出掛けに急な用事を言いつけられたのかもしれない。
 と、心の片隅に生じたかげりをあわててむこうに追いやって、そしたまた、会ったらどんな話をしようかなんてことを考える。時間はどんどん過ぎ去っていく。

 そのうち、水滴がポツンと尾生(びせい)の顔にあたった。とうとう降り出したのである。
 --どうしよう。初めてのデートがこの雨で流れてしまったら、その後うまくいかなくなってしまうような気がする。それだけはなんとしても避けなくてはならない。それに今ごろはこちらへむかってる途中なのかもしれないじゃないか。ポツリポツリと雨が落ちる中をせっかく来てみれば相手は帰った後、となれば誰でも怒りたくなる。オレは誠意のない男だと決めつけられてしまうかもしれない。それは困る。
 尾生(びせい)はそのまま待ち続けることにした。しかし、雨はだんだん強くなってきて、いまや本降りといっていいほどになってきた。

 しかたなく、尾生(びせい)は、待つ場所を少し移動して、近くに掛かっていた橋の下に入った。川原で待つと約束をした以上、本当はなにが起きようと川原から動くべきではないかもしれないが、そしてそれこそが、いかなる場合でもいったん口にした約束は必ず守るという男らしい態度なのだろうが、ここからでも約束した場所は見渡すことができるし、彼女のほうもこっちを見つけることができるはずだ。

 橋の下に入ったおかげで、体はそれ以上濡れなくなったのはよかったが、雨はますますひどくなる。空は以前にも増してドンヨリと垂れ込め、ときおり稲妻さえ走るようになった。雨足は強くなり、ちょっとむこうにあるものさえ、けぶってかすむほどだ。
 --ここまで雨がひどくなったら、彼女が来ないとしてもしかたないかもしれない。しかし、もし来たらどうする。こんな雨の中でも自分を待っていてくれたという事実に気持ちを動かされない女性はいないだろう。すると、それ以降の二人の関係はぐっと親密になれるに違いない。いや、そんなことよりも、待つといった以上は待つのが男というものだ。
 だから待つ。

 空から降る雨は地表を流れ、川に入る。昔からだいたいそういうことに決まっている。だから川の水が増えて、水面は徐々に上がってくる。尾生(びせい)は橋の下に入ることによって、降る雨には濡れなくなったが、そういうわけで、気がつくと増水してきた川の水で沓(くつ)が濡れてきた。
 あわてて橋脚が据えてある土台石に上がった。高さにしてわずか十センチほどだが、とりあえず足が濡れることはなくなった。
 しかし、雨はますます激しくなってくる。そのため、川の水はしだいしだいに増えてくる。
 さっきまでは土台石に乗っているだけで濡れなかった足も、もはや乗っていても水に洗われるようになった。
 それでも尾生(びせい)は待つ。なにしろこういうところ誠意の見せ場。男に二言がないことを証明する恰好の場面だ。と、さらに決意を固くする尾生(びせい)である。

 そんなことにかかわりなく、雨はやっぱり激しく降り続き、水面はじわりじわりと上昇する。今や、尾生(びせい)の足は完全に没し、濁流となって流れる水に持っていかれんばかりになっている。流されてくる小石がときたま足に当たって痛い。でもまだがまんできないほどの痛さではない。
 水かさは、さらにどんどん増えてくる。膝下くらいまでだった流れは股下くらいまでになり、腰がつかり、胸まで達した。
 水流の圧力はかなり強く、体ごと持っていかれそうになるので、尾生(びせい)は橋脚に必死の思いでしがみついていなければならない。その手がちぎれそうだが、いくら痛くてもここで離してしまうわけにはいかない。満身の力を込めて橋脚を抱きしめ、足をからみつかせる。波のようにうねった泥水が、ときおり尾生(びせい)の頭よりも高く押し寄せ、油断していると、口の中にどっと入ってくる。
 尾生(びせい)は渾身の力で橋脚にしがみつく--。

 翌朝、尾生(びせい)は、橋からはるか下流で、溺死体となって発見されたのだった。

 まぁ、約束を守るのは、とっても大切なことで、人の信用は、そういう小さな約束をどれくらい守れるかによって決まるといってもいい。そういう意味では川原で待つと言った自分の言葉をあくまえ守り通そうとした尾生(びせい)の行為は、それなりに美談なのかもしれない。特にこの場合は好きな女性に会いたかった故のことなのだから、その純情さにホロリとくる人もあるかもしれない。
 しかしねぇ。なにも溺れるまでがんばらなくっても。


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