『ペンギン・ハイウェイ』を観た。
※この記事には映画の演出や内容がわかる記述があります。
買う。原作。絶対。今晩のことを思い出しながら買う。
『ペンギン・ハイウェイ』は、正解。これ以上は無いし、これ以下は許されない。
原作小説を一度読んだことがあるけれど、読んでいるときに脳内で生成されていた映像と鮮やかな青、それと全く同じものが目の前のスクリーンの中で流れたときに、「これは正解だ」と思った。
缶がペンギンになるところも、「海」も、あの街並みも、全部正解だった。
「この映画を象徴するものって何?」と聞かれたら、「ペンギン」とか「お姉さん」とかそれぞれに答えがあると思う。
でも私は空を見上げても珈琲を飲んでも、レゴブロックを見てもこの映画を思い出す自信がある。強い風が髪をかき混ぜても思い出すかもしれない。
それくらい、ひとつひとつの描写や情景が濃いのだ。シンボルがありすぎる、この映画。
思考の象徴、ノートとペン。ペンのインクは少年の源とリンクしている。
心情は、雨や天気、風。
無気力、ベッドにさかさまに寝ること。熱。汗、寝ぐせ。
夢は、思考の整理だという。
揺れるカーテン。ぽつり浮かぶ一軒家。
珈琲、チェス、川、源流、循環、「海」、歯医者。
様々なものが散らばっていて、もうお分かりいただけると思うが抑えきれない、まとめきれない。
演出面でも追い込んでくる。
弦の音が目立つ、クラシックに似た秩序を持つBGM。
もうどうしてというほどにリアルで美しい空や雲、木漏れ日といった光の描写。
頑張れば種類が特定できそうなほどに描きこまれている植物たち。
何気なく発せられる言葉。それでも説明しきれないけれど、確かにそこに存在している大きな謎。
それらがこの一作品の中できちんと共存して成り立っているの、冷静に考えておかしい。でも成り立っている。怖い。
色々好きなシーンはあるのだけど、「海」をくぐり抜けてカフェで2人、アオヤマ君とお姉さんが話しているシーンがめちゃくちゃ刺さった。多分これはほとんどの人が刺さっていると思うけれども。
アオヤマ君はかつて、その感情が何かわからないまま、形を与えないまま持て余していた。でもそれを表せずにはいられなくて、わざわざ「遺伝子」なんて言葉を使ってまで懸命に表そうとしていた。
そのとき存在したものはもう、あのカフェには無かった。
でもそれは喪失と同義ではない。
きっとアオヤマ君はやろうと思えば今までのように、ぱらぱらと風がめくったノートのページにいつかスケッチしたときのように、することもできたのだ。
でも、その感情を「好き」だと定義した。
その成長が愛おしかった。眩しかった。
今晩私はこの映画を大学の友人2人とリモートで観ていて、観終わった後に感想を話したのだけど、それぞれの感想が共鳴しあいながらも別の場所に立っていて凄く良かった。いい経験をした。
しばらく、「大いに存在している」「大変」「いささか」って言葉が私たちの共通言語になる。と思いました。
青と共に焼き付いているのです。小学四年生の少年が背伸びして選んだ言葉たちが。
クソデカ感情は大いに存在しているね。以上。
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