セントエルモの火
全てを忘れて『伝染るんです』を読みたいが、この一週間続けると決めたからには日記は書きたい。
というわけで、一週間日記を書こうの試み4日目。
会った人に、「昨日の日記良かったね」と言われた。非常に嬉しい。
文章は、書いて世に出したその瞬間、私と分離する。海に、小さな笹舟を浮かべたようなもので、すぐに世界と溶け合って私の気配が遠くなる。
ただ生みの親であるという自覚はある。
だから褒められたとき、割と素直に喜べる。
容姿を褒められるとかそういうことよりはずっと快く、後ろめたくもない。
別に、そうしなければならないという決まりがあるわけでもないのだけれど、褒められても、うまく受け止められず否定したり、謙遜してしまうことが多い。
努力した部分や好きな部分を褒められるのは嬉しい。一生懸命働いて貯金をしてやっと買えた大好きなブランドのスカート、とかはそんな感じ。
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20を過ぎたので煙草を吸えるようになった。吸った。
色々あって、最初に吸いたい煙草を決めていて、あちこちに「これ吸いたいんです」と言っていたら、1箱いただいた。だからそれを、ふとしたときに吸っている。
食欲、性欲、睡眠欲、みたいな感じで煙草欲、が自分の先に浮かぶイメージがあんまり湧かない。煙が渦巻くのを見るのとか、自分が息を吐く音が引き立つのとか、そういうのは好き。
でも煙草を初めて吸った夜の歯磨きは、まるで口の中に残っている煙草の匂いを発掘する作業のように思えて非常に不快だった。
同じように飲酒欲も湧く感じがしない。まだ20になって1ヶ月と少ししか経たない若造が何を言っているんだと言われたらそれまでだけども。
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文章を自分の一番のアウトプットの方法としており、それを専門的に学ぶことのできる状況にあったのに、それを選ばなかった。岐路に立たされている。
感性のままにできることなど少ない。そう見えてしまう作品の背景には人により大小、濃淡はあるものの理論があり、ツールがあり、人と人とのやりとりがある。
それを学ぶ機会を逃した。
と、同級生の話を聞くたびに思って、少し苦しんでいる気がする。言葉選び、書き方、比喩の量、どれをとっても何かを思われてしまいそうで、そう思われることや指摘されることは嫌ではないのだけれど、怖い。
それでも書いているところにやるせなさと自分のプライドを見る。駄作にするのも、傑作にするのも、結局は受け止めた人のする仕事だと、昨日教室で聞いた言葉が頭を巡る。
「道」という字は、古代中国で、知らない道を進む時、魔除け代わりに人の生首をもち、それを前にかざすようにしながら歩いたことからきているといいます。
そうやって暗い先の見えぬ道を歩くために切れる首を探し続けている気がする。2年生が始まってそろそろ3ヶ月になる。
セントエルモの火は特に関係ありません。どうでもいいですけど水筒って便利ですね。
道という漢字については、漢字の由来の本で読みました。なんて本かは忘れたけれどすごい綺麗で端的で、好きな本だったので早めに思い出したいです。
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