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劇評|自分の中の他人の体、他人の中の自分の体 | 和田ながら×やんツー「擬娩」




和田ながら×やんツー「擬娩」
2021年 ロームシアター京都 
KYOTO EXPERIMENT 2021 autumn




 あなたもわたしも、生まれてきた。こうしてここに生きているなら、ともかく誰かから生まれてきたことはたしからしい。動き回るセグウェイは女性の声でそのような問いかけをしたあと、こう提案する。
 
 「産むところからやってみよう」

 それにのって妊娠・出産をシミュレーションするのは、十代の女子・男子、成人男性という、妊娠・出産ができない/すると想定されていない役を帯びた四人である。
 本作のタイトルでもある「擬娩」とは、妻の出産前後に、夫が出産に伴う行為の模倣をする風習のことだという。起床、身支度、授業、仕事、帰宅、食事、入浴、睡眠……。舞台上で繰り広げられるいつもの一日が、「産んでみる」模倣をする妊娠した体において、まったく変わった形でくりかえされる。
 舞台上で模倣をおこなうのは人間だけではないようだ。四人の周りには、セグウェイ、3Dプリンター、巨大スマートフォン、ロボット掃除機など、人間とはちがう「体」を持つものたちも、おのおの演技を試みる。そこから見えてくるのは、ちがう体を持つ者同士が互いに応答しあう方途としての「演技」というひとつの在り方だ。




体内の他人、体外の他人


 四人の人間がする妊娠の模倣に強調されるのは、五感や身体の変化から生じる不快感や痛み、社会との摩擦からひきおこされる困難や不安などである。俳優は体をつかって苦しみながら、語尾に「~だそうです」とつけて痛みのあり様を描写する。出産が近づくにつれ増していく痛みの表現と、時折現れる伝聞形式のセリフから生じるコントラストは、演技をする俳優の体と、演技対象である「妊娠する体」との壁をあかるみにする。その自他の体のあいだの壁は、俳優の体と観客の体においても立ち上がるかのようで、俳優のくるしむ様子を前に、観客側の体にも心理的な痛みが生じてくるが、俳優の痛みと観客の痛みは同じものではない。相手の痛みを前に自分の体がどれほど感じいっても、別々の体は「~だそうです」の壁の先にはいくことができない。

 人間の演技では痛みがクロースアップされるのにたいし、やんツーの扱う痛覚のないテクノロジーたちはちがう。3Dプリンターはりんごを公演時間90分かけてコツコツと制作しはじめ、スマートフォンはせっせと妊娠・出産情報を検索。ロボット掃除機はあまり変わらず地面をうろうろし、台状の機械は赤い風船をゆっくりとふくらましはじめる。一方で人間の身体のサポートや拡張として機能するテクノロジーが、ここではしゃべるセグウェイをはじめとし、人格のあるものとして存在しているかのように映る。「妊娠・出産を想定されていないものたち」という役を帯びた舞台上の俳優と機械たちは、自身の体をつかっておこなう演技をとおして、自他の体の壁に向きあっていく。

 お金は大丈夫なのか。学校との両立は可能か。受験はのりきれるのか。または、外に出たあかつきには、家系ラーメンに連れていってくれるか? 
 後半、体内のこどもと通話をするシーンがある。こどもが自身の体外である親を心配する問いかけに、自身の体内に自分ではないという意味での「他人の体」を宿した俳優は、きびしいけれどなんとか頑張るよ、と困惑気味に応じる。体内の他人に心配され、要望され、動かれれば、自分の体が痛い。通話がすすむなかで、自分のなかにいるはずのこどもという「他人の体」が、自分の外部にある社会へと反転していくように映っていく。体内から受ける心配や要望は、体外から受ける規範や圧力を浮かび上がらせるかのようで、困りながらもなんとかするよと応えざるをえない俳優は、まるで体内と体外の板挟みになっているかのようだ。

 「みな、生まれてきたことは確かである」ということは、他人の体のなかに、自分の体がかつて入っていたことがあるということである。和田ながら×やんツーの「擬娩」における、「産むところからやってみよう」という提案は、その逆の、自分の体のなかに他人がいると仮定してみる提案として進行していく。




みえないもの、わからないものへと演技する


 他人の体で起こっていることが自分にわかりがたいものだとして、では、自分の体で起こっていることは、自分でわかっていると言えるだろうか。
 四人の俳優は、同じ舞台上で日々を過ごしながらも、互いに関係がなく、ばらばらなままである。ここに覗くのは、痛みの見えづらさとわかりづらさではないだろうか。俳優たちは、舞台上で物理的に接近しても、関係が接続されることはなく、苦痛を訴えても応答してくれる他人は舞台上にはいない。唯一つながるのは体内のこどものみである。

 においに敏感になって吐き気がやまないことから、内臓に圧迫されて骨が動いて痛むことまで、俳優が饒舌に描写する苦痛は、細部が詳細であればあるほど、そのような状況が現実では見えづらいことを表しているかのようだ。また、後半の出産間際、だんだんとおおきくなっていく子宮のなかに、まるで何百人、何万人もの人間が入っているかのようだというセリフからは、他人からだけでなく、自分にもなにが起こっているのか捉え難いという、自分の体のわかりづらさが浮かび上がってくる。自分の体で起こっていることは、他人から見えづらいだけでなく、本人にもわかりづらい。そして、俳優たちの状況が刻々と変わっていくように、体は日々変わっていくもので「いつも通り」はない。本人にも捉えがたい自分の体で起こることに、同じ体ではない他人は、どう応答していけばいいのだろうか。

 擬娩という風習が、妻と夫の関係性のなかで必要とされたのはなぜだろうか。本人にも捉えがたい出来事が起こっている妻の体にたいして、夫は妊娠・出産の模倣をとおして自分の体の中に他人の体を見出していく。わかるものとしてやりとりができないことに対して、相互に応答していく手段が擬娩であるとすれば、本作の「擬娩」において、皆ばらばらの俳優間では、応答はおこなわれない。代わりに、舞台上でつながらない俳優の演技は、観客への応答を促し、俳優と観客の体においてシミュレーションされるかのようである。


 また、「演技」という枠組みは、現実の枠組みで沈みこむものを浮かびあがらせることができる。
 四人の俳優のうち、十代の女子ふたりは、劇のなかで「妊娠・出産を(今のところ)しない者」としての「役」を帯びているからこそ妊娠のシミュレーションをするのだが、現実ではちがうだろう。月経があれば彼女たちの体は妊娠する可能性がある。また、「産んでみるところからやってみよう」の提案ではじまる妊娠は、それ以前を扱わないことで、現実においてしばしば目線を向けられないこと、実際の妊娠はひとりでに起こるものではないことを逆説的に浮き彫りにしてはいないだろうか。

 ラスト、四人は背後の台に上がり、整列して「ははとわれとわれわれのばらばら~」と続く朗誦をはじめ、次第にひとりひとりの声がばらばらになり、聞き取れなくなっていく。
 「われわれ」は、体がちがう以上、いつもばらばらで、あなたの体で起こっていること、わたしの体で起こっていることは常にちがう。そしてそのちがいは、互いに提示して対応しあえる、わかりやすいものでもない。
 妊娠・出産のシミュレーションをするものたちの中に、人間とは別の体を持つ、テクノロジーたちがいたのは示唆的である。妊娠・出産を「他人の体」で起こるものだと想定している人間と、「自分の体」に起こりえるものだと想定している人間の、「大きなばらばら」の話だけではないのだ。個別に別々の体をもつものたちが、相互にわからなさへ接近することで互いの応答を試みていく営みは、自分の体を通しておこなう模倣という演技だからこそできることのようでもある。それは、自他の体の間に現れる絶対的な遠さを、相互に尊重し肯定していく行為にも見えてくる。別々の体を持つもの同士が、わからなさを通して応答していく演技という回路が、今作において問われていたように感じる。

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