九月の家

 死んだのだ、今朝。何がって、小学生の頃からずっと家にいた金魚の、三度目の子供たち、その最後の一匹が、玄関の水槽で。
 母が見つけて庭に埋葬したと言った。
 ずっと左目を病んでいた、幼い個体だった。
「……寝てんの」
 背中のほうで男の低い声がする。
 壁際のベッドに横たわる私は、頬と腕に擦れるシーツの感触を、じっとしたまま、皮膚と脳で感覚している。シーツは冷たい。耳の下の枕は少しあたたかい。開け放した窓の風を浴びて体は少し冷たい。
「んーん」
 無防備で無意味な問い掛けに、気のない否定を返す。彼が私にいま、特別な用があって声を掛けに来たわけではないのをなんとなく知っている。たまにあることだ。
 マットレスの奥、ベッドの下から、床が背中のほうに。六畳ぶん広がり、彼の足元で軋むのが聞こえる。空間にあるものを耳と背後の気配で感じている。何度も持った感覚だ。目を閉じている分だけ、視覚以外が強まるときの、奇妙に全能の、把握の感覚、知覚の拡散する感覚。
「じゃあ何。眠いの」
 声はフローリングを過ぎ、抹茶色の絨毯に踏み入る。足裏の固い肌と絨毯の荒い布地が、何歩か擦れる音がする。のしり、ひときわ大きな床の軋みがあって、彼がベッドの横に腰を下ろしたのが分かる。床が古いんだ。体じゃないから治らない、いつまでもそこの床は鳴る。何の用はなくとも時折こうして、何でもない話をしに来る。今日も多分、私のお気に入りのクッションを尻に敷いていることだろう。つぶれるからやめてくれといつも言っているのに。
 それを積極的に咎めるほど、ちゃんとした気持ちは湧いてこないけど。
「あんまり」
 窓の手前で日を浴びて、繊細な白いレースカーテンが微かな音を立てて揺れている。今日はあたたかい。風があっても寒くはない。四肢は指の先まで脱力し、私の呼吸は自然と浅くゆっくりになる。体が勝手に眠り支度をする。何でもないことだ。
 三度も世代が交代した。そのたびに親の金魚たちは、薄い鱗を水面に散らせて、次々に白い腹を見せては動かなくなった。時には自分や仲間の産んだ卵を食べてしまうから、別の水槽に隔離することもあった。金魚たちがいなくなること自体に今さら驚いたり傷ついたりしない。ただ、もう次の子供たちはいない、それだけ。
「そう」
 じゃあ起きて。そう言って用もない彼は、私のパーカーのフードを軽く引く。首が絞まるわけでもない強さのそれを、無下に切り捨てて目を閉じ続けるつもりはなかった。
 ごろと無感情な寝返りを打つ。腹に掛けていたタオルケットが、体の下でもたもたとわだかまる。私はそばにある白い顔や、筋肉のない腕や、着ている黒いジャージが見える体勢になる。それでやっと、彼がその手に見慣れた携帯ゲーム機を持っていることを知った。さっきからチャカチャカと煩かったやつだろう。
「なにゲーム、それ」
「狩り」
 そう聞いて意識すれば確かにそこからは、敵のモンスターのものらしき轟々とした鳴き声や、刀の類であろう武器の、鋭い切断音なんかが発せられている。もう何年もこのシリーズを遊んでいる彼だが、どうやら飽く気配はまるでない。
「なにステージ」
「川」
「見せて」
 画面を覗き込むと緑の山で、やれ懐かしき山水に朱や黄の鮮やかな紅葉が舞っている。翡翠色の清流を荒らすのはプレイヤーの操る武人と、対峙する青い獣だ。
「ふーん」
「興味ないかあ」
 きれいだけどどうでもいい、という気持ちを隠そうともしない声を零すと、彼はへらっと笑った。このやりとりは繰り返されている。ゲームやら本やら動画やらを見せてくる彼と、あまりそれらが琴線に触れない私の会話だ。
時に立場を反対にしたり、あるいは異様な食い付きを見せたりすることもあるが、私たちは根本的に不干渉を投げ合うしかない。
「綺麗だね、と、しか」
「ふーん」
 向こうも向こうで、私の感想なんかどうだっていいのだ。
 表情の消えた視線は画面に絶えず注がれている。私がそちらに注意を向け続ける必要もないほど、ここにはコミュニケーションも、それを生もうとする意思もない。それもまた大した問題ではない。私は私で、体勢を仰向けに変えて再び目を閉じるのだし、彼は彼で、相変わらずチャカチャカやっている。外から柔くぬるい風は吹き込むのだし、薄命なうすい花弁はそこへ散り混じる。
 どうだっていい。どうあっても構わない。気にする意味もない。確認の反復だ。柔軟剤のジャスミンの匂いが、そこらに吊られた洗濯物からも、私からも彼からも強く香っていることも。じきに夕暮れの始まる時間になることも。遅い午後を無意義に、静かに、平らげていることも。何でもないことだ。私にとっても、彼にとっても同様に。
 けど、今朝、そのどうだっていい景色のピースがひとつ、唐突に欠けたのだ。それでついに私は、欠けを分かって、欠けていなかったものを知るに至った。
 目を開く。天井には、中学の頃に貼った蓄光シールが点在している。成す角形は様々あるけど、どれも本当の星座ではない。知識のないまま好き勝手に並べたせいだ。昼間に見る光らない星は、古びた鈍い木目に似合わず、どうしたって無様でしかない。そこから目を逸らし、東と北にひとつずつの窓の明かりに浮かび上がる部屋へ、ぼんやりと意識を向けた。
「……おかーさんはぁ?」
「さっき買いもん行った」
 画面から目を離さず、手も止めず、とはいえ珍しく素直に答えが返ってくる。
「夕飯かな」
 帰って来たら手伝わなくては。
「多分。今日焼き鮭だってよ」
 悲痛な轟音がする。彼はどうやら青い獣を始末できたらしい。雄々しくも華々しい、電子的なファンファーレが鳴る。
「やきじゃけー……」
 ううん、しかし、魚かあ。
 私は魚料理があまり得意ではないのだ。作るにしても食べるにしても。
「あと胡麻和え」
「ごまあえ。なにの」
「さあねえ……ああ、んー」
 どうやら狩りの収穫が乏しかった彼が、投げやりに舌打ちと低い声を零す。
「ほうれん草とか、かにかまとかじゃないの」
 今日は機嫌がいいらしく、随分話してくれる。それを続ける義務は私にないけど。
「ふぅん」
 私の無関心な応答が、自分に必要な情報を全て受け取ったことを知らせるものなのだと、彼はどうやら把握している。再びゲームへ取り掛かり、その視線は細かな文字の表示を追う。だから私も、脇腹でごちゃごちゃと固まっていたタオルケットを、仰向けの手足で器用に広げる作業に入る。
 知らぬ間に冷えていたのか重たい四肢を動かすと、敷布に接していた面に滲んでいた汗が、すっと冷える感覚が起こる。はふ、と空気を孕んで膨らんだタオルケットが体に落ち、怠惰な作業が終わる。
「寝んの」
 画面上の温泉で猫に取引を持ち掛けながら、彼は私に訊ねる。
「寝ない」
 タオルケット一枚を掛けて思ったが、少し気温が下がってきたみたいだ。「出てくんならついでに窓閉めてって」と言えば、彼は渋々頷いて「いや、まだ出てかないけど」と続ける。
「そう」
 タオルケットに続いて足元の毛布を、首まで引き上げるだけの動作がとても億劫だった。仕方なく両足の裏で挟んで引っ張ろうとしていると、彼は呆れ半分で低く「なにしてんの」と訊く。
「寒い」
「寒いィ? じゃあ起きていま閉めたらいーじゃん、窓」
「んーん」
「やだってか。何がそんなに……ハァ、」
 片手にゲーム機を持ったまま、彼は膝に手を置いて立ち上がる。そのまま部屋を歩き、少々乱暴に、だがきっちりとふたつの窓を両方閉めてくれた。
 揺れていたカーテンが静かになる。
 透明な窓ガラスを隔てたところで、何が変わるとも思えないが、部屋はほんのわずかに、塞いだ暗がりに近づいたようだった。あるいは単純に、窓が汚れているのかも。そういえば先日の雨以来、拭いていなかったような。
 暗いあたたかい部屋が望ましい。静かな午後がいちばん良い。おそらく胎内回帰への憧憬に基づくそれは、だからこそ、特別ひとりでなくても構わない。だって最初からそこにさえ、ひとりでいたことなどないのだ。生まれる前の狭い場所でさえ。
 例えばいま、彼が黙って出て行ったら、私は彼を怒らせたのかと思ってしばらくは気にする。じゃあ最初からこの部屋に彼がいなかったら、静かな午後を十分に満喫できたかと言えば、そうではない。急に訪ねてきたって追い返すこともしないし、彼以外で窓を閉めてくれるあてもない。
 窓を閉めたらまたベッドの横に戻ってきて、腰を下ろす。やはりそこには私のクッションがある。何度言ってもどうせやめないのだと思ったから、結局、咎めることができなかった。もしぺたんこになってしまったら、新しいのを買わせてやろうと考えた。しかし最初から、部屋にはいずれ彼がいるもので、今日のこの午後もそうであるような気がしていたのだ。
 目を閉じて、また開く。
 窓辺の机上に置いてある、いつかに親戚の旅行土産で貰ったガラス細工。斜めになる光を反射して、壁や床や天井に投げている。華奢な花と蝶々をあしらった円錐形のそれはとてもうつくしく、でも、色が、いまはよくない。
 だって赤だ。真っ赤な、澄んだ朱、緋だ。丸く、あるいは歪んだ葉っぱの形に、白い天井に明かりが映る。空気の対流が作る揺らぎなのか、外の木の影か、時折その光はひらひらと動く。水のように。浮かんでいるように。今朝も寝坊した私が見なかった、最期の様子はこんなだったかも。
 ゲームの音が静かになる。
 首を動かしてそちらを見ると、遊ぶのはやめたらしく、ゲーム機の電源は落ちていた。その無表情に近い、読めない表情で私を見ている。私とよく似た顔。彼に似て生まれた私。
「昼。食わなかったろ」
 抑揚のない声だ。
 なんだ、用、あったんじゃないか。
 私は自分の視線が、自分がいまどんな表情をしているのか分からない。神経質な彼はきっと、それを分析している。
「冷蔵庫に置いてあるけど。腹減んないの」
 主語のない説明は、きっと少し前、一階で冷蔵庫を開閉する音がした頃の話だろう。昼に下りて来なかった私を気遣って、母が入れておいてくれたのかもしれない。ありがたいし、申し訳ないけれど、その時に漂っていたお好み焼きの香ばしい匂いは、いま思い出してもさして食欲をそそることはない。それのための気持ちがない。
「欲しければ食べていいよ」
「いや俺はいいよ、食ったし。おまえ腹減んないのって」
 投げやりに返せば、予想通り、彼は多少苛立ったように繰り返す。焦れた声のそれに、私は期待する言葉をやれそうになかった。傍目にも薄い腹をさすって、考えたふりのあとに答える。
「へんない。夕飯は、たぶん食べる」
「ふーん……」彼の視線が外れる。
 立ち上がり、手持ち無沙汰に腕を伸ばしては棚の漫画本を抜き、開いてはパラパラとめくり、閉じては戻す彼がやけに痛ましくて、嫌だ。今日は本当にどうしたんだろう。お前はそんなに優しい人間じゃあないのに。いつも休みとなれば、所属の部活動を除いて部屋から出て来もせずに、ずっとゲーム画面に向かう彼なのに。あと、その漫画は大事なやつだから不用意にいじらないでほしい、開き癖が付いちゃう。
 不満気な視線が伝わったはずもないのに、腕はパッと漫画を戻した。少し歩き、落ち始めた日の赤い外を遮るように、分厚い遮光カーテンをサラサラと閉めていく。
「まあ……いいや。風呂沸いてる。俺さき入るけど、すぐ出るから、父さん帰ってくる前におまえも入れよ」
「うん」
 部屋の角のドアから出て行こうとする、彼のジャージの背中よりも、閉じられたカーテンから尚も入り込む、夕日の色が気になった。いつかおばあちゃんに貰った、小指のような鼈甲飴に似ている。あれは甘くて、あまりに甘くて、毒のようで恐ろしく、美味しいのにひとつで充分だった。
 去って行く彼の足音が、来るときよりも淡い。私を寝かしつけるために必要なノイズであるかのような、そんなそぶりの音だった。それだけが意識できた。
 もうなんだか思考が混乱して、ひとつずつ追いかけたいような、いっそ全部がどうでもいいような、それは印象派の絵画の筆致を辿るときに似ている。点描も、ステンドグラスもそうだ。こんな思考もどうでもいい。排水溝に絡まった髪の毛のようにぐちゃぐちゃしたものと、真っ白な何もないものが、同時に瞼の裏に浮かんでいる。もどかしい矛盾。嫌だ。風呂の順番が来るまで、気絶するみたいにして浅い眠りに意識を投げた。


 新しく浴室に置いてあったのは、あんずの匂いのするシャンプーだった。帰ってきた父に「寒いよ、寒いよ、早く」と冗談交じりに急かされながら入った湯船はあまり温まらなかったけど、真冬じゃないからそれも深刻な問題にはならない。何せ、残照に照らされた庭の空気も、六時半を過ぎてまだ暖かい。寝間着の上にきちんとカーディガンを羽織れば、こうしてうろつくくらいは平気だ。
 庭は狭いが、樹の濃い匂いと、土の湿った冷たい匂いがしている。湿気た空気が重くて、上手く吸い込めない私は少し咳き込んだ。まだ乾ききらない髪を両手で撫で付ける。
 いくつか、薔薇と、名前の分からない紫色の小さな花が咲いている。どんな香りか気になったけど、近づくのはやめておいた。よく虫が湧いて母が辟易しているのを知っているから。
 庭全体の暗がりの、曖昧ながら繊細な凹凸を眺めて、奥へ進む。玄関から離れて車庫のほうへ行くと、臙脂色の煉瓦や、子供の頭ほどの大きな石が、土の上へ乱雑に放り出されている。母が庭に樹を植えるとき掘り起こしたものだ。煉瓦の上には、一昨年の夏に海で拾った貝殻が置きっぱなしだ。大小の白い丸がふたつ並んでいるが、その表面の微細な波までは、さすがに暗くてよく見えなかった。げほ、と再び咳き込む。
 煉瓦の傍にしゃがみ込む。
 掌ほどの大きさの、貝殻の片方を取り上げて、軽く砂を払う。ちょうどよさそうだ。煉瓦の手前の土を、貝殻で抉るように掘る。
 ざり、ざりり、ざり、がり、がりり、がり、ざり。細かな石が混ざる土を、薄く固い貝殻で掘削する。やはり土は踏み固められていない。ごく最近ここは掘り返されたのだ。
 次第に土は湿り気を増していく。
 ざり、じゃり、じゃりり、ぐぐ、ぐ。
「……あ、」
 何か弾力のある、表面のやや固いものに当たった。私は土を掘るのをやめて立ち上がる。いままで背中で遮っていた玄関灯の明かりを、足元に通した。さほど暗くなりきってもいないから、光源が遠くても十分に視認できる。
 汚い朱色の背中、葉っぱに似た輪郭、敷き詰められた小さな鱗、薄い鰭、白く膨れた目。グロテスクな実体。親指ほどの金魚が一匹、静かに横たわる。
「…………、げほっ……」
 特に言葉は出てこない。まあ、むしろ魚の死骸に話しかけることがあるほうがおかしいと思う。でも死骸をじっと見つめているのも、十分におかしい。こんなことをしてしまうのが、そもそも。だからなんだと言いたいんだろう。どっちでもいい。
 目は結局治らないまま死んだらしかった。
 鱗は、この子の親たちよりかは、剥がれていなかった。
「もみじ」
 背後で声がした。素直に振り返る。風除室から顔を出しているのは、寝間着のスウェットを着た彼だ。風除室はストーブの給油のために、庭に向いた和室から降りられるようになっている。灯油の赤いボトルの横に、ぼろぼろのサンダルを履いて立つ彼は、なぜか手に瑞々しい真っ赤な苺を持っていた。
 驚いて「何それ」と訊けば、彼はさも美味そうにそれを口に運ぶ。その手は空っぽになる。「うめえ。……見りゃ分かんだろ」それはそうだ。
「なんで苺あんの」
「おばさんから貰ったって、父さんが」
 え、ずるい私も食べる、と言えば、もう夕飯だし多分そこで出るから我慢しろと返される。「じゃあかえで食べてんのなんでだよ」というか、わざわざ見せつけて食べるためにここまで持ってきたのだろうか。
「俺はペットの墓を荒らしたりしない良い子だから、台所から無断で取ってきても許される」
「いや許されない、その理屈はおかしい」
 冗談のように本気の会話をしていれば、彼はのっそりと動き、まるで巣に戻る獣の仕草で、私の足元にしゃがみ込む。
「あーあ、せっかく気持ちよく眠ってたのに。かわいそ」
 そう言って、慈悲深い聖者の真似事でもするように、私の手から貝殻を取る。深くもない、ただ暗いだけの穴に向かう表情は、上からでは見えない。私のまき散らした湿った土を、再び死骸に掛けては貝の背で軽く均し、彼は右手の簡単な動作だけで、金魚の墓を元通りにしてしまった。
「眠ってるの」
 私は彼の言葉尻をつかまえて、小声で問う。
「うん、死んでるよ」
 彼は、彼に可能な限界の穏やかさで答えた。そうなのか。死んでいる。それは確かに。
「死んでるの」
 疑問形ではない、零れるような言葉だった。
「冷たいなあ」
 彼が下を向いたまま言う。
 半笑いの声だ。彼が私の、平素と自失の合間のような声色を指して言ったその言葉を、私は都合よく取り違える。冷たいのは魚の体だ、横たわるその死骸のことだ。
「前からずっと冷たかったよ。だってずっと水の中にいたんでしょ。でもいまは冷たいより寒いんだよ、一匹で。土がもっと冷たいでしょ、体より、水の中にいるより、仲間といるより。身を寄せるものが、もうどこにもないでしょ」
 伝わらなくても構わない、そう思って言った。それでも彼は一瞬だけきょとんとして、冗談と思ったか、理解を諦めたか、持ち上げるように笑う。ぐっと力を入れて立ち上がり、四十度ほど見上げた位置から、視線を寄越す。そうしてあっけらかんと言い放った。
「じゃあ燃やしてみる? あったかいかもよ」
「焼いたら、かえで、それ食べなきゃね。もう調理だしそれは」
「やだよ。金魚は不味いだろ」
「そうなん」
「知らないけど」
「ふーん」
 投げやりに返事をすると、彼はとうとう、私の後頭部を拳の甲で小突いた。私は吐息だけで笑った。汚れた指先の砂を、ズボンや裾の適当な場所で払い、サンダルを脱いで風除室に入る。すぐ洗面所で手を洗って、夕飯を食べなければ。
 どうでもいいことにしたいのだ。早く他のもので押し流して、過去のひとつにしてしまいたい。そのほうが楽なのは知っている。彼だってきっとそうしろと言う。でも同時に、いっそ鮮明なものにしたくもある。思い出す度に顔が強ばって、心臓がきゅっと縮んで、否応なく思考がとまるほど不随意の感覚、いっそトラウマでもいい、劣化しない、忘れない記憶にしてしまいたくもあるような──
 少なくとも土の下を暴いて眺めるだけではどうにもならなかった。でもきっと私はこの季節のたびに、あんずの匂いを嗅ぐたびに、貝殻を触るたびに、苺を見るたびに、今日の夕方を思い出すんだろう。それが傷になっているかは分からないけど、思い出せる程度には忘れていくんだろう。ひとつの予感だ。私はこの程度で、人生のいろんなことを済ませていける。そういう予感だ。
 洗面所から向かった台所では、母がコンロに、父が炊飯器に向かって夕飯の支度をしている。古い換気扇の音が煩い。双子の弟は私の横で、冷蔵庫から常備菜を出して食卓に並べ始める。さっきまでのことは忘れて、全き日常動作だった。
「もみじ、お皿、五枚出して」
 母が手元を注視しながら言う。
 棚から食器を出し、母に渡す。焼き鮭と根菜の煮物、ほうれん草の胡麻和え、豆腐の味噌汁、白米が用意され、夕飯が出来上がる。食事が終われば少しテレビを見て、用があれば少し話して、皆それぞれの部屋に戻って過ごし、そのうち眠る。こんなものだ。
 皿の焼き鮭は全部、昼の分も空いていた胃に収まった。


 十一時を過ぎてそろそろ布団に入ろうかと考えていれば、不意に隣の部屋から無言で彼が訪ねてきた。シーツを整える姿勢の途中で固まった私をよそに、入り口のドアから顔と腕を伸ばして窓に何かをしている。
「……ねえ、なに」
 近寄りながら胡乱気に問えば彼は、こちらに短い棒状のストラップを見せて「ペンライト」と答える。いつか彼が科学系の雑誌の付録で手に入れたものだろう。ずっと机の引き出しを肥やしていたはずだ。
「ほれ、見てみ」
 そう言って彼は壁に手を伸ばし、部屋の電灯を消す。暗いと思ったのは一瞬で、すぐに別の光源に気づいた。
 ペンライトが置かれていたのは、あの旅行土産のガラス細工の後ろだった。天井と壁に向けて、黄色と赤のグラデーションの光が投げ掛けられている。昼間に見た、不恰好に散らばったようなものではなくて、ちゃんとあれが花でこれが蝶々、とはっきりと映る。
 見上げる後頭部を、小突くより軽く、ぽん、と撫でられた。
 いろんなことを、どうして、と訊こうとしたら、すでに彼はいない。追及を諦めて、途中だったシーツをきちんと伸ばし、そこへ体を投げ出した。枕の凹みに合うように頭をぐりぐりと押し付け、落ち着いた位置から天井を見上げる。もう鱗には見えない。本物がこれよりもっと濃密な赤であるのを、さっき見てきた。固い天井では、花も蝶々も揺らがない。あれは水面なんかじゃない。
 瞼を閉じても、少し明るすぎて、眩しい。眠るのに最適とは言えなくても、何を望んでいなくても、今日はちゃんと眠るのだ。繰り返しそう考えて、気づかないうちに私は眠っていた。


 その晩に見た夢がなんだったとしても、翌朝、何も憶えていなかった。いつもだ。何かを見た感触だけ残って、詳細はさっぱり失せている。寝起きで重い腕を動かし、ライトを消した。
 夢の溶け残りを思い出そうと何度も首を回す。回しながら階段を下り、顔を洗い、身支度をして居間に入る。今日は早番であるらしく、父はすでに仕事に出ていた。母と弟と私、三人の席に朝食が並ぶ。隣の母が「おはよう」と言いながら、私のコーヒーに牛乳を注いで渡す。私は「おはよう」と答えながら受け取る。向かいに座る彼は黙々とバターを塗ったトーストを咀嚼していたが、ふと視線をこちらに向け、すぐに逸らす。砂糖も牛乳も入っていないコーヒー。中身を知ってる。好みのことはよく分かる。今日の気分は、どうだろう。
「いただきます」
 皿にあった、ただの苺を摘まんで、齧り、私は食事をする。彼も食事をする。あとで部屋までペンライトを返しに行こう。それから、部屋の窓を拭くのだ。

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