白昼

 晩夏の帰省を終えて、戻りの電車に乗っていた。
 車両は六両ほどで、乗客はそれほど多くなく、空席がいくつかあるくらいだった。田舎から田舎へと向かう路線の例に漏れず、外は絶え間ない田園の長閑さと、山間の緑を抜けるばかりだった。
 その路線は大凡全て各駅停車で、一度乗り換えを挟んだ乗車時間は合計して五時間程度だった。しかし駅数がべらぼうに多いというわけでもないので、特急だったとしても三時間半はかかっただろう。新幹線はそもそも通っていない。そんなかんじの距離と場所だった。
 その日の荷物はトランクとショルダーバッグがひとつずつで、トランクは立てて床に、バッグは隣の席と自分の膝のあいだに、中途半端に置いていた。なぜ荷台に上げないかというと、単純に置き忘れそうだったのと、手が届かないのでやむを得ず、という理由があった。
 頼んで上げてもらうことも選択肢にはあるが、私には自分の荷物を扱うのに他人の手を借りるなどということは到底できず、それゆえにトランクは車両の揺れが起こるたび、座席の側面とパタパタぶつかった。
 車内は秋の午后らしい日差しに満たされていた。その日は風が強く、厚く短い雲がサーッと通り過ぎることはあったが、雨が降る様子はなかった。金色の、よい秋晴れだった。
 音楽プレイヤーと文庫本で暇をつぶしていた私は、ふと手元に流れ込んできた日差しに引っ張られて、顔を上げた。何度か停車したあとのことで、たしか二時ごろだったように思う。下を向いて固まった首筋を回して解し、周囲に視線を向けると、前に顔を上げたときと乗客が変わっていた。
 スーツのおじいさんがいたはずの正面には、自分と似たような年頃の、しかしバッグひとつの軽装なお嬢さんが掛けていた。短いカーキのスカートに、踵の高いブラウンの靴を合わせ、足先は軽く組まれていた。白いブラウスから伸びてスマートフォンを操作する指先には華奢なネイルアートが施され、今どきの女というものを表現したらこうなるのだろうな、と考えた。
 気になったのは、そんな彼女の容姿や雰囲気などではなく、その頭部である。ふわ、ふわ、と空調の風に揺られながら、染めた長い巻き髪にくっついていたのは、大きな綿毛である。
直径でいえばだいたい三センチほどだった。残念ながら、私は綿毛といえばタンポポしか知らない身分なものであるから、それが何と言う名前の植物なのかは分からなかった。だがその存在感は、無機質な銀色の車内で、人間以外の有機的なイメージとしてはいたく大きいように思えた。
 日差しに白く浮かび上がるそれは、見ている間にも、ふわ、ふわ、と揺られ続けている。当のお嬢さんは気付いていないのだろう、スマートフォンの画面に夢中だった。流行のメイクが施された大人っぽい顔が、頭にくっついた綿毛ひとつで、ずいぶんと愛らしいものに見えた。
 電車に乗り合わせた他人というものは、同じ場にあり同じ方に向かうものでありながら、驚くほど無関心になれる。私が向かいの乗客に視線を向け続けていても、何となく気配で分かろうに、周囲は相変わらず各々の関心から離れない。面倒を避けたい気持ちは痛いほど分かる。
 そうやって無関心をいいことに、私はお嬢さんの頭の綿毛を眺めていた。ふいに電車がゴォッと轟音を立て、何度目かのトンネルに入り、彼女の背後にあった窓ガラスが暗くなる。すると、詳しい原理は知らないのだが、ガラスはちょうど鏡のような反射を成し、そこには彼女の背面と私の姿が映される。彼女の頭部よりも少し低い位置に現れたのは、彼女と同じ綿毛をくっつけている、私の頭だった。
 手を伸ばして髪を撫でると、ひしゃげた綿毛が取れる。
想像していたよりもずっと柔らかい。黒い種子は胡麻粒よりも小さく、吹けば飛ぶようで、実際そうだった。
 手の中のそれを眺めていると、視界の端にいくつか同じものが流れていく。見上げると、車内には綿毛がたくさん浮かんでいた。空調の成す対流に押され、床に落ちては舞い上がり、何度も旋回する綿毛は、彼女の頭にくっついていたひとつきりではなかったらしい。服にくっつき、荷物にくっつき、周囲の乗客はだいたいどこかにそれを連れていた。
 腹の奥底からこみ上げる笑いを抑えるのに必死だった。この綿毛たちはとても賢い。彼らは、同じ野で生まれたであろう個体よりもずっと遠くまで行ける。ふわ、ふわ、何でもないような顔で空調を遣り過ごし、気付かずに降りる人間のどこかにくっついては、生存領域を拡張するのだろう。自分のクローンみたいな子孫を残して、倍々ゲームでひたすら増える。羨ましい生き方だった。
 手の中にあったひとつを見下ろす。繊細な綿毛は、思いがけず楽しいことを見つけてしまった私の手汗を吸って、重くなっていた。指に張り付くそれを、でこぼこした座席の布にこすりつけて、はがす。もうどこにも行けないね、おまえ。
 電車で芽を出したらどうなるだろう。名前を知らないので形は分からないが、私の知らない形の根を張り、葉を伸ばし、来年の今ごろにはまた綿毛を生むのだろう。それがここに根付けば、秋の車内はきっと一面、同じ形がふわふわして、随分柔らかく、座りやすくなるのだろう。走る車内はきっと草原を運ぶようなのだろう。そんなばかげたこと。とんでもない。不可能だ。楽しいだろうに。
 停車の揺れに体をとられて傾く。向かいのお嬢さんはバッグにスマートフォンを仕舞ってサッと立ち上がり、頭に綿毛を連れたまま、開いた扉を出て行った。かわりのように吹き込んできたのはとてつもない強風で、髪を横にあおられた私は反射的に目を瞑る。
 再び開いた視界には、もうふわふわとした綿毛はひとつもなかった。金色の車内に坐る人々は各々の関心を熱心にこなし、綿毛のことなど知らない。やがて扉は閉まって風は止む。動き始めた窓の向こうは相変わらず、田園と山間を過ぎて行くばかりの、渺茫たる知らない景色だった。

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