役割を持たない時間を過ごす

母親である。
女である。
専門的な仕事に携わっている。
躁と鬱の狭間で押しつぶされそうになっている。

自分が望んで、もしくは人間が考えて考えて定義したものに当てはまって、客観的に見れば「こう」だろうというものに所属して生きている。
ときどきそれがとんでもなくしんどくなる。

そういうときには、ちょっとだけ逃げる。
望むものだけを身体に、視野に、頭に入れる。

便利な世の中だ。
お金を出せば、刈らなくても狩らなくても食べ物が手に入るし。
到底近づくことも知り合うこともないようなメディアの中に存在する著名人を、気の済むまで眺めることが出来るのだ。
そしてその全てに後腐れがない。
素晴らしい。
そして最高に虚しい。

役割を持たない時間を過ごす。
これは役割を果たすために必要なエネルギーを充電する行為だ。
酷いと言われることも、無責任と言われることも(主に自分の親から、だけれども)あるけれど、子供の安全だけを確保して、わたしは今日も少しだけ母親を辞める。
優しくあることが必要な仕事を休んで、ひとがばたばたと死んでいく映画を観に行く、水槽から出られずにずっと回り続ける魚を見に行く、檻から出られず常同行動を繰り返すホッキョクグマを見に行く。
スターバックスで抹茶ラテのベンティサイズをオールミルクシロップパウダー多めで頼んで、飲んでる途中で胸焼けする。

なんでもないわたしの、なんでもない、思うがままの、無駄で気持ち悪くて(そう思っているのはわたしだけかも知れなくて、でも誰になにを思われてもいいやということが必要で)誰のためにもならない、とても大切な時間があることを自分で肯定したいと思って、これを書く。

書くことが充電になって、わたしはこれから役割を果たす。
子どもたちを送り出す準備をする。

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