老いていく母に届かないもの

母はたぶん、発達障害だと思う。
相手の気持ちを察することが出来ない。
それでよく、ひとを相手にする仕事を40年もやってきたと思う。
そういえば昔、職場で友人は一人もいない、馴染めていないと愚痴を零していたような覚えがある。
大人になって、客観的にひとりの人間としての母をみると、そりゃ友人出来ないよね、と思うことが度々ある。

母に感謝するところがあるとすれば、勤労女性のパイオニア的な人生を送っていて、「これからの時代は女性も男性と同じように働いていくことになる」と教えてくれたことだ。
だからこそわたしはいま、資格を持って仕事に就くことが出来、子どもたちを養うことが出来ている。

しかし、母は社会のいろいろな側面について母自身の時間を割いてわたしに体験させるということをしてこなかった。
要は仕事だけしていた。
社会に出るとはどういうことか、お金とは、人間関係とは、勉強はなんのためにするのか、困難な事象が起こったときにどうしたらいいのかなど、なにも教えてくれなかった。
面倒なことは起こしてくれるな、という気持ちは伝わってきた、仕事が出来なくなるから。

仕事は母のアイデンティティであり、収入源だったから、母にとっての自己肯定するものとして唯一無二のものだったのだと思う。
子どもが育つには、物理的に不足なく提供していれば問題ないと思っていたのかもしれない。
物はいつも溢れていたように記憶している。
けれど子どもの頃のわたしが「本当に欲しいもの」を分かろうとしなかったし、知ろうとしなかったし、「これでいいでしょ」なんて言って、欲しいものとはかけ離れたものを買ってきてはいおわり、となって、幼いなりの欲求は満たされずに終わってしまうことが殆どだった。
それ故に、わたしはいま、自分の欲しいものを我慢するということに対してとても苦労している。満たされなかった欲求が積もり積もって、解消できなくなっている。底の抜けたバケツみたいなもの。
と同時に自分の欲しいものを手に入れるということに罪悪感がある。欲しいものが手に入らないことが常であるという習慣は、わたしにただ欲しいものを手に入れるということを過剰な欲望として捉えさせる。
当たり前に、欲しいものに対しての気持ちと金銭のコントロールができる人が羨ましい。
母のせいにしていても進めないので、リハビリが必要だと感じている。
毎日しんどい。

わたしが子ども一人で育てているために、母に預けるときがある。
子どもが「ばーちゃん(母)に欲しいおもちゃがあると伝えたのに無視されちゃった」と泣いてきたことがあった。
それを母に確認してみた。すると「そんなこと言われてない」と答える。
母はいまでも、子どもが拙いながらに欲求を伝えてきたとして、それに反応することが出来ない。
だからなのだ、母はよくわからないおもちゃを、預けるたびに買っている。対象年齢もそぐわないし、そもそもそれを子どもが欲しいと言ったこともないようなものを。
そうすると、物が増え、そして使わない。
わたしを育てていたときより時間に余裕のある母は、孫に対して、結局わたしにしていたことと同じことをしているのだ。
それを母に話すときがある。けれど話が噛み合わない。
何のこと?というような顔をして、その話題は苦手だからもうやめてというようなリアクションをし、話は変わるけどと言って違う話題に移っていく。
もしこのことを、母がもっと若い頃に伝えられたら、母は少しは変わってくれたのかもしれない。
けれど母はもう70歳目前。年老いた母の思考を今から変えろということが酷なのはわかる。
これを変えるには、仕組みを作らなければならないのかもしれない。母がよくわからないものを買って浪費することを予防し、せっかくお金を使ってくれるなら、子どもたちが喜ぶようなものに使ってくれるようにする仕組みを。
そう考えてはいるけれど、たぶん出来ない。
これまでにも何度かアプローチを試みたけれど、すぐに元に戻ってしまう。
わたしには、母を変えることに費やすエネルギーも時間もないのだ。
そうわたしに思わせるのは、母がわたしにエネルギーを費やさなかったことの、しっぺ返しなのかもしれない。
そしてこれを俯瞰的に眺めれば、ひとを変えようとすることの難しさと、それよりも自分が変わっていくことの方が手っ取り早く問題が解決するというおおよそ普遍的な事実を実感することになる。

母は変われない。
母に望んだ子どもとしての気持ちはもう届かない。
悲しくもあるけど、これは今後まだ生きていく予定のわたしにとっての糧になる。
わたしは子どもたちの母として、どう変わっていかなければならないのかという課題を突きつけてくれる。
母なにもしなくても、変わらなくても、母として、わたしに今もなにかを与えてくれている。
と思っていながら、そんなにキレイに割り切れずに、もやもやしながら、喧嘩しながら、過ごしている。

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