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#4 誰かになりきることに、撮る我流あり。

こんにちは、こんばんは。
口癖が「眠たい」でお馴染みになりました、夜野カエルです。

緊急事態宣言が明けて、大学の対面授業が再開したり休んでいたアルバイトや仕事が営業できる状態になったりした1週間でした。
何もかもが同時にスタートして、身体がびっくりしてしまう人もいるかもしれません。…私のことですが。

授業が対面かオンラインか関係なく、私は常に眠気に襲われている人間です。
第1回の記事で、「眠いもんは眠い」的なことを言っていた気がします。初っ端から文句垂れるなって話なんですけれども。
やる気に満ちている人が100%開いているとしたら、無の表情での私は常時50%の目です。今も、目が開いているのか否かというギリギリのラインでこれを書いています。
おまけに、目つきが少し悪い。例えるなら、狐に似ている気がします。
故に、私は常に誰かを睨んでいるような目を持って生きてきたんですね。()


そんなとき、偶然にも私は、Twitterでこんな呟きを見かけました。
(元URLは、どこにいったか分からなくなってしまったので省略いたします…)

「常に眠い人って、そんなキャラの自分がカッコイイと思って、演じてるよな」

…えっ。

私やん!!!!!!()



演じることで生まれた感覚。


私は「日常的に眠い」「日常的に目つきが悪い」キャラクターであるということはおそらく確かです。
ですが、先程の考え方に合わせて考えてみると、もしかすると私は無意識的に「自分はそうありたい」と思っているだけなのかもしれない。つまり、"演じている"だけなのかもしれないのです。

第1回のとき、私に初めてできた推しの話を少~しだけしました。

それは、『カゲロウプロジェクト』という夏の日を繰り返す少年少女の不思議な物語。

初めてできた推しというのは、その中に登場する、ツインテールの19歳の女の子のことです。「榎本貴音」といいます。彼女もかなり人を睨みつけるような目つきをしていて、10時間以上は寝なければ気が済まない人物です。
しかし、私はそんな彼女に、何とも言えないかっこよさがあることを知っていたんです。そのときから、きっと憧れ続けていたんだと思います。

憧れから、彼女のようなキャラに似せて「私」をつくりあげることは、いけないことなのでしょうか?

普段から「私」じゃない誰かを演じるということは、本物の「私」ではないからマイナスなことなのでしょうか?


私は、そうではないと思っています。

自分の人生の主人公は、誰でもない、自分です。
物語の主人公って、大抵がどこかでカッコイイ一面を見せるものだと思います。ならば、人生という物語においても、自分が少しでもカッコイイと思える瞬間があったっていいじゃないですか。

「そうありたい」と理想を抱いて、本来持っていなかった自分になりきれる瞬間があったとしたら、いつもより風景や出来事が異なって見える。新たな発見だってできるかもしれません。
ちなみに私は、そのキャラクターを無意識的に演じることで、「眠い」という感覚を常に持っていました。だからこそ、眠気に意識が支配されていく様子を鮮明に思い出すことができるようになったんです。

伝わって、いるんでしょうか。

…ああ。脳に浮かんでいる映像ごと、送ってしまえたらいいのに。



私の目には、どんなキャラクターが映るのか。


なぜ、こんなにキャラクターに対して熱く語ったかというのは、私が写真を撮ったり観たりするときに心掛けていることが「ストーリーを生み出せるかどうか」だからです。

要するに、お話にはキャラクター(登場人物)が必要不可欠です。
人生を進める中でそのとき見ている景色に、そこに適したキャラを浮かべて、物語の一部分を描けていそうかどうかというのが、私の表現に関わってきます。

(※これについて触れている記事は下にあります…。長くなるから、もしお時間があれば、参考に読んでみてね。↓)


オンライン授業のこともあってあまりじっくりと時間をともにはできていませんが。
それでも、多くのことを学んでいる自分たちの学校を、頭に映像を浮かべながら写真におさめてみました。

いつか言った気がするけれど、想像の世界に正解なんてありません。
なので、私の妄想は、写真を魅力的に飾っている要素だと思ってくれて構いません。また、それに従って私と同じ景色を想像しても楽しいと思います。
(上手く言葉だけで想像させられるかは分かりませんが…。)

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ここは、いつも先生が生徒へ熱心に語りかける場所。
陽光があたる窓際、かつ目立たない最も後ろの席は、誰にとっても特等席であるはずです。
この写真は、そこに座るあまりマジメではない主人公(私)が、先生のことをふと眺めたという一瞬をおさえています。その主人公目線の風景ですね。

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これは、その続き。先生側の視点です。
生徒より少し高い場所から見る光景。何かの発表などでいざそこに立ってみると、何だか心まで高ぶってしまいます。
意外にもここからは何でも見えます。目立たないと思って選んだ窓際端の特等席は、逆に目をつけられて目が合うなんてこともしばしば…。

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授業がチャイムが鳴る前に終わったとき、先生によく言われる言葉を思い出します。「他の授業はまだやってるかもしれないから、騒がずに帰ってね」。きっと、皆が小学校から今までずっと言われてきたことです。
それでも、友人との話に華が咲いてしまうと声量は増します。

すると、主人公(私)が先程の教室を出て、ふと後ろを振り返ったところにこんな光景が広がっていました。奥の黒板の前に、先生が立っていてお話を続けている真っ只中ではないか…。
自分だったら、そうなったらちょっとだけ声を抑えちゃうのかな…、なんて思います。

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…あっ。ちゃんと消毒もしなきゃね。笑

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声を控えめにしつつ、踊り場をくだっていく主人公(私)を客観的に捉えた一枚です。
「お昼ご飯食べる?」「これから、何する?」なんて他愛ないことを交わすのが階段の踊り場だと思っています。よくそんな経験をしますから。

またちなみになんですが、この階段の踊り場は、陽光とそれによる影でよく面白いと感じさせられます。
時間によって、白昼夢にいるような温もりのある場所だったり、お化けのひとつでも出てきそうな怪しげな場所だったり、変化するんです。これは朝10時頃です。あたたかくて、心地よい…。


と、まあこんな感じで。ある一日を学校で過ごす不真面目ちゃん(私)を撮ってきました。
このときの私は、青春していた高校時代の自分になりきって大学の校舎内を歩いていたんだと思います。
全てのものが煌めいて見えていたのを思い出させてくれる、大切な感覚です。

実はまだ少し残っている続きの写真もあるんです。それはまた今度、別のものとしてInstagramの『空月記』などに載せていきたいと思っています。



振りカエル。


いかがでしたか?

主人公(この場合はあなた)は、ここではこんなことを思っているかもしれない。
そこからあんなことをして、あんな展開に繋がっていくかもしれない。

など、風景を見て、自分がそこに主人公として存在していることを考えながらシャッターを切るのは、非常に楽しいと思います。
漫画などの「常に眠いキャラ」と同じで、カメラ越しの風景に自分がポーズなんかつけてまで存在していると想像したら、きっとかっこよく感じるでしょう。

だから、私もいつか自分が無意識的に演じてしまっていた「常に眠いキャラ」が合うような景色に、物語に、出会えたらいいなあと思います。