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トキシックロマンス-劣等パラドックス-#3

「今日はどちらまで」
「神楽坂で会食があるの」
「かしこまりました」
「宮東、久しぶりな気がする」
「そうですね」
 沙夜と顔を合わせたのは、それから更に二週間後のことだった。出張や商談が相次いでいるにも関わらず、疲れを一つも見せず凛としている沙夜は今夜もそれ以降口を開くことはなかった。
“――――探されていた曲、見つけたかもしれません”
 その一言がなかなか出てこない。本来そんな気さくに話しかけていい相手ではない。目的地まではあと十五分程度しかない中、ハンドルを握る叶汰の手にはじわ、と汗が滲みだす。赤信号にぶつかる度に深呼吸をしては口を引き結ぶ。バックミラーで後部座席を見れば、誰かと連絡を取っているのかずっとスマホの画面を見たままだ。見たこともないような穏やかな表情で。やはり言うのは今ではないのかもしれない――――。叶汰は早く伝えたい気持ちをぐっと堪えながらアクセルを踏んだ。長いような短いような時の流れはもどかしく、無心で走行し続けた。
「沙夜さん、着きましたよ」
「……ありがとう」
 月曜日の夜、いつものように颯爽と車を降りた沙夜は神楽坂の街中へと消えていく。次はいつ会えるのだろうか。車内には残り香がかすかに漂っており、叶汰は言えなかった自分を悔いながら振り向いた。後部座席には白いワイヤレスイヤホンが一つ落ちていた。
 イヤホンが片方無い、はたまた片耳が故障して聞こえないなんて状況は、音楽好きには多大なストレスである。今日も会食が終わったら、沙夜はおそらく音楽を聴いて帰路に着くのだろう。叶汰は迷わずイヤホンを手に取り、走り出した。
 沙夜はああ見えて、大和を失った傷心がまだまだ癒えていないのかもしれない。音楽を聴いている時が唯一の安らぎなのかもしれない。あの曲名がわかったら、暗い胸中にわずかでも光が差すのかもしれない――――。叶汰の実に勝手な忖度は、ここへ来て恐ろしい速さで脳内を巡り出す。今夜の店は知らないが、沙夜御用達の店なら知っている。ゆったり風情のある街並みを直感で足早に進んでいく。賑わう表通りから、ひっそりと老舗料理店が点在する横丁の入り口へ曲がったその時だった。叶汰の足はだん、と音を立てて止まり、目がゆっくり見開いた。
 石畳で出来た路地の真ん中で、男女が口付けを交わしている。約三メートル間隔に置かれた路地行灯の頼りない明かりでもわかる。十歩先にいるのは、あの斜めの後ろ姿は、間違いなく沙夜だ。そして、その相手へと目を凝らす。
「…………兄貴……?」
 信じ難い光景に身体から力が抜けていく。筋肉質な叶汰に比べて細い体躯。叶汰に似た目元と鼻筋。沙夜がネクタイを引き寄せているのは、まぎれもなく叶汰の実兄――――宮東湊だった。
 一歩、二歩。後ずさりをする。背をかがめ薄ら目を開けて沙夜を見つめていた湊が一つまたたき、叶汰を捉えた。鼓動が早鐘を打つ。足が動かない。イヤホンなんか届けるんじゃなかった――――。久しぶり、とでも言うような湊の目配せが叶汰の後悔をしんしんと煽る。沙夜が唇を離し、二人は濡れた瞳で見つめ合った。
 鈍重な時の流れに耐えられなくなった叶汰は背を向け、来た道を半ば放心状態で引き返した。


 二つ上の湊とは、幼少期からいつも一緒だった。優しくて、物知りで、面倒見が良くて、兄弟喧嘩はほとんどしたことがない。公園、駄菓子屋、プール、図書館まで、どこでも二人で遊びに行ったし、叶汰は常に大好きな兄の真似をし、揃いのものを欲しがった。
 ただ一つ、兄には生き物の死骸を解剖する隠れた癖があった。あれは叶汰が小四の夏休みのことだ。夕暮れ時、公園の隅でしばらくしゃがみこんでいる湊に「にいちゃーん」と駆け寄った叶汰は、目下の蛙がグロテスクな変容を遂げている光景に胃酸が込み上げてきたのをよく覚えている。乱雑に取り出された臓器。血に塗れた指先。湊はカッターを片手に「おお」と振り向きながらにこやかに笑っていた。叶汰は見てはいけないものを見てしまった衝撃から、数日ご飯が喉を通らなくなった。そしてそのうち、考えないようにした。ショックだったけれど、あれは一体何だったのか聞く勇気は無かったし、その出来事がまるで夢だったんじゃないかと錯覚するくらい、湊はいつも通りの優しい湊だったのだ。
 もちろん両親はそんな一面を知らないから、成績優秀な湊を褒めたたえた。スポーツ万能で、話も面白い。器量も良く、女子からの人気も高い。叶汰はそんな湊を誇らしく思いながらも、成長するにつれて数多の感情を抱えるようになっていた。まず、湊が誰かにとられてしまうかもしれないという焦りと独占欲。次に、兄が有名すぎるゆえ「湊の弟」「宮東弟」としか自分の存在を覚えてもらえない侘しさ。一番心に暗雲をかけたのは比較だ。叶汰だって優秀な結果を残していたし、クラスのムードメーカーだった。非の打ち所がない兄の背を見て「こうなりたい」と思っていたからだ。けれど親や周りが見ているのはいつだって湊だった。自分だって似たものを持っているはずなのに。叶汰という名前を持っているはずなのに。自尊心は長い年月をかけてすり減っていった。
 湊が叶汰の心情に気付いていたかはわからない。湊は自発的で、いつも自ら物事に取り組み、周りには目もくれず突き進んでいるように見えた。そんなところにも憧れていた叶汰は、大学も湊を追いかけて難関校の医学部へ進学した。親元を離れ、二十歳になって酒が飲めるようになると、二人で夜な夜な遊び呆けるようになった。湊の言うことには妙な説得力があり、年齢の割に艶やかな雰囲気が人を惹きつける。叶汰はノリの良さと得意の喋りで場を盛り上げる。ファッションや髪型にも気を使い、華やかな湊と叶汰の周りには常に大勢の人間がいた。
 クラブに入り浸っていた時期、酒を浴びて踊るだけでは物足りず、一度だけキメたこともある。ハイになったその夜は、引っ掛けた美女二人とラブホテルに移動した。高価なドラッグは末恐ろしい快楽をもたらし、四人は盛った猿のようになった。翌日、トラウマ級の倦怠感には懲り懲りだった。日を跨ぐ数時間前にようやく復活し、枯渇した五臓六腑に炭酸水とカップラーメンを流し込んだ。それでも足りず、湊の提案でピザとコーラを出前した。その庶民的な味が、どれも最高に美味しかった。
 またある時は、深夜に思い立った湊に誘われ、バイクに二人乗りをして誰もいないレインボーブリッジを走り抜けた。湊の腹部にしっかり掴まりながら上を見ると、初夏の夜空に数多の星がよく見えた。そしてお台場海浜公園で寝転がりながら幼少期の懐かしい話や将来の話で盛り上がり、東京湾に昇る朝陽を見た。湊と過ごした大学生活は、叶汰の人生の中で一番楽しかった。
 人間とは矛盾する感情を平然と抱えることが出来る生き物だ。叶汰は「宮東兄弟ってすごいよね」と言われても心から喜ぶことができなかった。湊は絶対に越えられない存在だ。どうせ兄がすごいのだと卑下していた。一方で、湊についていけば絶対に大丈夫だと、いついかなる時も一緒だと、当たり前のように根付いてもいた。しかしこの過信がここから破綻を招いていく。
 第一志望の病院へ難なく就職が決まった湊に対して、叶汰は医師国家試験に受かることすら出来なかった。一年、二年。研修期間を終えた兄との差はどんどん開いていく。約九割が受かると言われる国試に手こずっている現実に、叶汰の内心が穏やかなわけがない。寝ても覚めても焦燥と比較に駆られ、湊が着実に功績を挙げている話を耳にする度、荒んだ感情がぶくぶくと鈍い音を立てて膨れていった。参考書と向き合っているはずがこれっぽっちも集中できない。何度も解いた過去問のわかりきった答えを書き入れてはむなしくなる。輝いている兄の横で「叶汰も頑張りなさい」と親族に声を掛けられる自分が滑稽で惨めで仕方がなかった。
 ――――そして、二年目の冬。三度目の国試を目前に控えていた叶汰は、ふと自分が悪足掻きをしているかのように思えてきた。湊がいなかったら自分は何を目指していて、今何をしていたのか。湊を軸とし、湊しか見えていなかった自分という存在の曖昧さ。自分が漠然と描いていた未来の浅はかさ。自発的ってなんだろう。自分はただ、自発的な兄の真似をしていただけだ。叶汰はシャーペンと参考書を投げ捨て、ベッドに丸くなり考え耽った。兄の視野の広さと、自分の視野の狭さ。取り返しのつかない月日。兄以外に見つからない“医者になりたい理由”。
 日の暮れる頃、空は鈍色曇に覆われて大雨となった。冷たい雨粒が窓を叩く音が、空っぽの心に染み入った。
 眠れなくなったその夜はひとりでヤケ酒をし、湊とよく通っていたクラブに行った。天候のせいか中はひどく混雑していた。このまま酔って、ふわふわと浮遊した意識の中、人混みにまぎれてもう消えてしまいたい、と思うほどに叶汰は消沈していた。客層は入れ替わり、あの頃の知り合いは誰一人いなかった。最も強い酒を煽り、爆音のメインフロアで身体を揺らし続けた。
「あーれ、おにいちゃん超久々ー。元気だったー?」
 午前三時。隅のソファでうなだれていたところに声を掛けてきたのは、昔湊と叶汰が一度だけ薬を買った金扇組の男だった。特徴的な五指の刺青ですぐにわかったものの、あの頃の派手な柄シャツと長髪のチンピラスタイルは卒業したらしく、風貌が随分変わっていた。緩やかなオールバック。仕立てのいいスリーピーススーツ。どこか紳士的で、気品すら漂っていた。
「…………どうも」
「ひとり? ヤケ酒ー?」
 間延びした口調は変わらない。叶汰は自嘲気味に喉を鳴らしながら頷いた。横に座った男は顎に手を添え、値踏みするように叶汰の顔から足先まで視線を這わせた。
「……なんすか。そんな見つめたって、俺、なーんもないっすよ……からっぽです」
 ろくに呂律も回らない叶汰に口角を上げた男は、耳元にぐっと唇を寄せ囁いた。
「じゃあ、そんなお前にめちゃくちゃいい仕事があんだけど。興味ある?」
 ――――そこから叶汰が姿をくらませ、十年が経った。悪魔に手招きされるがまま闇に身を委ねたこの夜のことを後悔しているか、と聞かれたら、叶汰は即答ができない。けれど恐ろしくも義理堅い大和のもと、血生臭い環境で無我夢中で働き、彫り物を入れ、自分が形成されていくような感覚は新鮮極まりなかった。
「ボスとボスの奥さんに気に入られたら色々はえーから」
「……そうなんすね」
 そう教えられたものの、そんなことはどうでも良かった。生まれ持った勘の鋭さと腕っ節の強さはここへ来てようやく開花し、自然と湧いてきた向上心に赴くまま、肉体をつくるためにトレーニングに明け暮れた。培ってきた知識や粘り強い探究心が活かされ、更には素直な弟気質で盛り上げ上手でもあった叶汰は周囲に馴染むのも早かった。大和は叶汰を気に入り、ことあるごとに叶汰を呼び出しては会合や会食に同席させた。
 そして、三年前。湊が独立して精神科病院を立ち上げたという噂が流れてきたのと、叶汰が裏社会でのし上がり金扇組の幹部まで昇格したのは、奇しくも同日だった。


 叶汰は自宅に着くなりソファに倒れ込んだ。クッションに頭が沈んでいく中、リモコンに手を伸ばしテレビをつけた。歌番組がやっていた。
「本日のゲストは今一番ホットなアイドルグループ、泥酔☆白粉娘の皆さんでーす!」
 今年で三十六歳になる叶汰は考える。兄が金扇組の幹部にいたらどうなっていたのか。叶汰だけが知る解剖癖が、活かされていたのかもしれない。初めて人を殺めた夜、一晩中身体が震えていた叶汰の横にそっと寄り添ってくれたのかもしれない。きっと頭がキレるんだろう。きっと大和にかわいがられていたのは自分ではなく湊だっただろう。きっと自分は、隣で永遠に比べてしまうんだろう。
 褪せていたはずの思い出が、皮肉なほど鮮烈に甦る。昔から飄々としていた兄は、多くを語らず腹の底が読めない兄は、自分を見て何を思っていたのだろうか。もしかしたら目を輝かせながら必死についてくる叶汰に、無意識に優越感があったのかもしれない。
 追想の果て、叶汰はようやく今日の出来事へと思考が辿り着く。自力で幹部という地位を手に入れ、沙夜の送迎を唯一許されていることが嬉しかった。幹部でさえその存在感に張り詰める空気を持っている沙夜と、どうこうなりたいと願っていたわけではない。ただ、最近少し話せただけで浮かれていたのかもしれない。知らず知らずに何かを期待してしまったのかもしれない。沙夜と湊を見たあの瞬間、心臓を強い力で鷲掴みにされたような感覚に足がすくみそうになった。
 十年振りの兄は甘だるい色気が増していた。そして沙夜は、そんな湊の前で叶汰たちが絶対に見ることのできない女の顔をしているのだ。
 結局、何もかも敵わない――――。叶汰の中で、また比較が始まった。生涯触れたくなかった記憶の箱が開いてしまった。鍵を掛けてぐるぐるに鎖を巻きつけて、深く沈めていたはずの箱はいともたやすく開いてしまった。記憶と共に叶汰の根底から溢れ出た劣等感が、みしみしと身体中に蔓延っている。
「それではニューシングル『あんたの友達大変なことになってるわよ』です、どうぞ」
 テレビの中で、煌びやかなスタジオセットと軽快なメロディーに合わせてアイドルが踊り出す。とびきりの笑顔でテレビに映っている彼女たちも、絶望に打ちひしがれることがあるのだろうか。誰かと比べて、頑張っても一生敵わないのかと嘆く夜があるのだろうか。あまりにも今の自分にそぐわないサウンドに、叶汰はテレビを消した。静寂に身を委ねて目を瞑った。大きく息を吸って、深く、時間をかけて吐いていく。今度はゆっくり、ゆっくりと心が陰鬱に蝕まれていく。

 十五分が経とうとする頃、チャイムが鳴った。

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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