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永いお別れ

 彼の故郷の家の、目の前にある道の名前を憶えている。覚えていようとしておぼえているのではなくて、ただ、彼の紡いだ言葉が私の体から抜けない、それだけのことだった。もうひとつも気持ちが残っていない、彼自身を思い出しても惨めに思うだけのはずなのに、何故か彼の故郷には、惹かれていってしまうのだった。それはたぶん、彼が私に残した故郷への思慕、嫌悪、そしてそれらとわたしとの間には、越えられることのない隔たりがあるからだった。私の知らない、彼の慣れ親しんだ土地。彼が生家の写真を見せたせいで、私の頭のなかには田舎の漠然としたイメージと、トタン屋根の光沢、面格子の硬さがちぐはぐに入り乱れていた。なぜノスタルジーを感じてしまうのか。それは過去や郊外への憧憬なのかもしれない。私が到達することのできない地点への感情。彼はそれをとっくに飛び越えて、いまここに存在していた。到底敵うはずのない相手だったからこそ、私は安心していられた。土の匂いがする、山の音がする、風が吹いて、少しだけ彼の気配を感じる。どこかで聞き馴染みのある道の名前が呼ばれたとき、私は車も人気もない道路に立っていた。横には見慣れた家屋があった。目の前には枯れ果てた山があって、それは彼がいつも登っているものらしかった。彼は私にとってのシェルターだった。私に対して何の感情も抱かないことが、わたしにとっての一番の愛であり、安心だった。ここは愛で重すぎる。彼は私にとっての知らない土地であり、知らない人だった。
「⚪︎×道」と、そう叫ばれたとき、私は目覚めた。知らない道にいた、私は彼に会いたいとは思わなかった。どうしてまだ、のこりつづけるのか。わたしが大切なものをなくした時に、それも一緒に消え去るのかもしれない。


←これ実は、猫じゃなくて、狼なんです。