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濡れてなお香る梅雨
梅雨に入ったと勢い勇んで、強く雨が降っていた。
傘をさしていてもバッグと足元はひどく濡れ、駆け込むように彼の店に入る。
店内には雨音も街のざわめきもほとんど届かなかったが、時おり雷の光が暗く冷えた部屋を照らした。
調理のために彼が厨房に火を入れたからだろうか。少しだけ店に暖かさが宿った。
火から少し離れ、ビールを開ける。
さっき走ったせいで泡が勢いよく吹き出した。
景気がいいね。
今日も多分、この天気とビールの味にそぐわないほど甘く楽しい昼になる。
彼の調理する姿が好きだ。
小さな厨房で最短距離、最小限の動きをしながら、独り言とも私への説明ともつかない何かをつぶやく。
私は冷やかし、彼にまとわりつき、動線に立ち邪魔をする。
その袋にはきのこがいっぱい入っているの?
ポルチーニ茸しか入ってないよ。
でもきのこの絵がいっぱい描いてある。
それぞれのきのこの名前を彼は教えてくれたけれど、ひとつも覚えられなかった。
よくわからないアルファベットときのこの羅列したその袋が、ただきれいだった。
肉が苦手で少食な私のために、慎ましい量の料理が並んだ。彼の見立てた白ワインは氷に浸され目に涼しい。
彼の料理はいつだって何だっておいしい。
客ではない私に対しても好みをヒアリングし、可能な限り要望に応えてくれるところからも、彼の普段の仕事ぶりは伺える。腕は確かなのだ。
一杯目のビールが効いた。
ワインを1本空けた頃合いにはもう心地よい微睡みに包まれていた。
食器は目を閉じてしまったほんの一瞬の間に下げられたようだ。
テーブルでうとうとする私を彼の手が誘導する。
仮眠用の粗末なベッド。
もうほとんど眠りに落ちかけている私を、彼の優しい愛撫が夢と現に揺さぶる。
彼は料理をするように丁寧に的確に触れる。
肉に包丁を入れるように繊細になぞり、ワインの香りを確かめるように首筋に鼻を寄せ、味わい分けるように体中に舌を這わせる。
上になって下になって、互いの囁きと匂いを混ぜ合わせる。
イタリアで仕事をしていた彼は、そのせいだろうか、もう何年も昔のはずなのに、異国のような匂いがする。
キスの味も体の匂いもスパイスみたいだ。
私の紅茶の香水と相まって、知らない国で交わっているようだった。
何度も体を擦り合わせ、部屋がふたりの匂いで満たされたのちに、熱い体液が注がれた。
雷はいつのまにか遠ざかっていた。
ピアスが3つ並ぶ左耳を口に含み、右耳のヘリックスを左手でなぞる。プラチナの滑らかさと針の鋭さが舌と指を刺激して、別種の快感の味がする。
彼は何か言ったが、よく覚えていない。
舌の感触と体に残る気怠さにただただ浸っていたかった。
うっすら目を開けると小さな庭が目に入る。
大粒の雨につつじは潤い、青いもみじはしなだれて雫を落としていた。
耳たぶから唇を離しキスをする。
舌に残る味も、感触も、知らない国の匂いも、梅雨の始まりの雨に全て溶けていった。
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