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束帯は高級品だから着ている?

結論

  • 高級か、そうじゃないか、では判断していない

  • 着用しないと仕事できない

  • 生地は給料か貰い物

<束帯や位冠(装束)は高級品なのか?>

現代の感性からすれば絹製品であり、様々な衣類が必要になるため高級品となるが、平安中期では「高級品だから」、「ハイブランドだから」、「好んで」着用していない。
というか、
仕事着の「束帯」は好みの流行のデザイン変更はゼッタイ、ダメ。
厳禁。 → 即、出勤停止

でも、確かに当時も絹製品は高級品であったことは間違いはなく、『西宮記』には窃盗犯を捕らえた際に盗品の絹反物の価格が「換算すると○○文」であったと記載されている。そこからみるとそこそこの金額となるのは確か。そこそこの金額になる理由は需要と供給バランスが偏っていた、あるいは一部(朝廷)が絹反物などを独占していたから。
ちなみに絹反物は官物(庸・調)として税の一部であり、様々な種類の反物生地が生産地から京進されていたことが『延喜式』、また宣符(『類聚符宣抄』や『政事要略』)からわかる。この、税金としての絹織物が、平安時代の貴族装束か発展した重要なポイント。

宣・符や古記録(公卿=高級官僚の日記)には京進が間に合っていないので催促するように、といった今の督促状がかなり記録されているので、期限通りに納められなくなりつつある事も窺える。

では、何故に当時もそれなりに高級とされていた装束を着用せざるを得なかったのか?
それは法による着用指定があり、着用すべきタイミングがあり、位階によって格差があったから致し方なく着用せざるを得ないものだった。

これらの着用に関する規定や格差はすべて律令(現存するのは『令義解』と『令集解』にある主に養老令)の中にある職員令や衣服令、また、式(貞観式や『延喜式』)によるところが大きいが、それ以外にも先例として藤原家など、主だった家がそれぞれ大切にしていた家訓のようなものが元になっている。

この家訓のようなものは御遺誡(ごゆいかい)だったり、古記録とよんでいる各貴族の日記がベースになる。

また、現代のスーツと同じで「仕事着」なのでどんなに高いものだとしても作業で破れたり切れたりもする。そのため、年中行事の4月、10月の「更衣」を行う場合には束帯ではなく直衣で行ったなどの記録もある。まぁ、束帯と言っているぐらいなんで石帯で締めているものなので荷物の上げ下げやもの運びには向いていない。(というあたしも仕事柄、スーツ姿でサーバーを運んだり、UPSをマウントしたり、ラック設置したりするけど、スラックスが破れたこともしばしば…)

では、どのようなものだったのか、というと、『延喜式』の「縫殿寮」にサイズなどの規定があり、縫製職人が一日にでどのくらいの縫製ができてどのくらいの給料が支払われていたのかがわかる。そこからみるに、上級の(良い)職人として認められるためには、位袍を日に一着以上、誂えることが可能であること、とされた。そのようにして、現代のオーダーメイドスーツより遥かに簡単で、短納期。

(オーダーメイドスーツの場合、2~3週間かかるでしょ。あと、スーツってかなり作るのが大変。ラペルの部分とか刺し子しないといけないし、ポケットは少なくとも4つも付いてるし、袖にも本切羽にするとまー、面倒くさい。それに比べたら、簡単。簡単。)

さらに縫殿寮という役所は基本的に天皇の御服及び祭儀に用いるための衣服を縫製する場所なので、貴族と呼ばれる官人向けの縫製はほぼ行っていない。

そこで一般の貴族(官人)はどうしていたか、というと、大貴族ならば自宅で染色と縫製を行っていたことが枕草子や源氏物語、大鏡などの物語から確認できる。束帯や位冠という「装束」というものは自宅で縫製できる【程度】の衣服であり、ある程度の経験を積んだ妻や家人が縫製し、宮廷に着用して仕事着とした。

<当時は既製品は有ったのか?>

確かにあった。
大貴族ならば染から縫製に至るまで自宅で行っていた。
しかし、中・下級貴族、とくに位階の変動がある場合にはそうはいかない。実情として、市で購入したか、借りるかすることになる。

<平安京の市>

平安京では毎月、前半15日までに東市、16日から西市が立つ。この市は官制によるもので沽価(公定価格)をとっていたということが『延喜式』から知られている。(『延喜式』には価格表をちゃんと役所に3通、提出して。ともある。ということは価格についてのダメ出しもあったということだろう。) また一部の商品は専売制度をとり、「東市」と「西市」では販売されるものが異なってもいた。しかしながら生活必需品の食料、衣類や食器類はどちらの市であっても販売・購入できるようにもなっていた仕組みで運営されていたこともわかっている。

先にも述べたように、公卿以外の役人であれば給料としてコメや調味料などの食料は毎月支給、それ以外の「時服」と呼ばれている装束を誂えるための生地は年に2回、国から【現物支給】された。(『延喜式』の規定通りだと春夏は四月、秋冬は十月の2回)
ポイントなのが「現物支給」とされていること。ここですこし思い出してほしいのが、日本史を勉強すると「皇朝十二銭」といって平安の中期ごろまでに作られた銅銭について勉強したはず。そう、銅貨での貨幣経済が回ってたはずで、銅銭を使うように促して、官位を与えていた推進派の朝廷なんだけど、官人に支給されるのは租庸調で集められた現物。なんで銅銭に換金せずに現物だったのか?
それは、それぞれの給料を配給する役所(おおもとのサイフ)が異なっていたからだし、公務員である官人の勤務体系(労働時間)や、東西市の場所にも関係するだろうと推定されている。

<ここからがようやく、本題>

自分の家でどうにも消費できない物品を持て余す貴族や、運よく余剰生産した庶民からの物品が流れてきていたのも確かで、その中には装束も含まれる。

だけど、仕事着(束帯)って好きなデザインや色、着ちゃいけないんじゃ?
そう、だからこそ、自分で着用できないレベルの装束が家にあっても、ちょっと困りもの。

なんで、自分で着れない装束なんて持っているのさ?
それは各儀式に参加することで参加賞的な「禄」が得られ、その「禄」の中に上司の位袍(今のジャケット)や、今でいうワイシャツのような「衵」や「単」、さらに「ジレ・ベスト」のような扱いの下襲ももらえる。

たとえば『西宮記』にある相撲節会での記録で、越智是海という相撲取りがとてもよく、それに感動して左大臣が自分のワイシャツ(衵)、ジレ(下襲)を脱いでその人に与える、って言ったことが実際に記録されている。この相撲取りは各地域から力自慢が集められるため、良民であるが、官位を持っているのかも怪しい。しかし、左大臣(今の総理大臣)が自分の着衣を脱いで「禄」としてプレゼントしている。だけど、受け取った是海はそもそも、着用なんかできないし、そんな高位な装束を着用する必要もない。

このように「禄」でもらったものを大事に取っておくこともできるけど、物々交換や換金して別のものにしたほうがいい、というのは昔も今も変わらず。
そのため、このような「禄」はもらった時に儀礼として被いたら、市場に流してしまうことがあった、と記録されている。
さらに、貸衣装店の様に貸し出すことで利ザヤを稼ぐこともできたとある。

<誰がターゲットなの?>

再三、書いているとおり束帯は好みで着用できず、厳格なルールがあったのでそのルールに逸脱することは出勤停止などのペナルティーが科される。しかし、貸衣装店や販売されていたということは、ターゲットになる人とがいた、ということ。

そのターゲットになった人は、

  • 叙爵・陞爵して任官されて間もない人。

  • 困窮しているけど官位(役職)についている人。

のパターンだったと思う。

まず、任官されて間もないということは、どういうことか。

そもそも平安時代の階級制度は「叙位」と「除目」という仕組み。
叙位はランクを与えたり上げたりすること。
これは定期的に行われていたもの(多くは正月七日の白馬節会内)と、臨時で行われるものがある。
除目は自分のランクにあった仕事場をもらうこと。このことを用語でいうと、「官位相当」と言っている。『枕草子』の「すさまじきもの」にある通り。あんな状況。

毎年の叙位は一定期間内の評価(勤務日数、借金とその返済額、儀式への貢献度など)によって上がることがあった。また定期的な叙位の情報は実際のとこと、内々に情報がもれる。さらに皇族や摂関家に顔が利く場合、皇族などが持っている「特別推薦枠」として叙位される。その場合には上司や親族から位階に合わせた装束の生地が贈られ、自宅にて誂える時間もあった。

だけど、天皇即位や瑞祥、ものすごくよい働きをした場合に行われる臨時の叙位の場合、証明書(位記)を貰う前に挨拶回りや根回しのため宮廷に赴くために仕事着の自分の位階に合った装束着用しなければならず、今年の大河ドラマでもあったように装束をかしてもらうことも合った。

また後世のように厳格には定まってはおらず、極官という自分の家が登り詰められる最上の役職=位階の定まりは緩やかで、家格が流動的だったので自身の頑張り次第、あるいは、上司をどの程度取り込んだのかによる叙位・除目が行われていたので位色により、例えば、六位から五位(緑から緋色)、五位から四位(緋色から薄紫)といったように、叙位されることによる装束の変換が必要であった。この場合、事前準備できない場合には、友人に借りるか、貸衣装にするか、市で探して購入するかのどれかになる。

そもそも、束帯は袖が広く着丈も大きく縫製されているため、現代のオーダースーツのようにその人に合ったものではなく端折って着用することができるものであったので、借り物であっても位色が合えば通用した。

こんな状況だったので、最初に書いた結論のように、

  • 好みでみんな黒い束帯を着ているんではなく、

  • ハイブランドだから、絹織物を着ているんではなく、

  • 法律で決まっている、シルエット、カラーコーディネートが必要だった、

ということ。

このコーディネートや着用規定は
 帽子(冠)、
 ジャケット(位袍)、
 ジレ(下襲)、
 ワイシャツ(衵や単)、
 スラックス(表袴、大口)、
 ベルト(石帯)、
 靴下(襪"しとうず")、
 靴(浅沓、靴)、
 アクセサリー類(平緒、餝太刀、笏、魚帯)
まですべて決まっていたので、禄としてもらっても着用できる、できないがあり、できないし、着用できるまでの位に上がれないと見込まれる場合には宝の持ち腐れとなるため、市場に流通させた、ということになる。

おしまい。

参考文献

国立国会図書館デジタルコレクション
 承安儀式 [2](タイトル画像)
 改定史籍集覧 第27冊 (新加雑類 [第1])
 新校群書類従 第6巻 (装束部(二)・文筆部・消息部)
 神道大系 朝儀祭祀編 2 西宮記
 神道大系 古典編 11 延喜式(上)
 国史大系 第23巻 新訂増補 令集解
 国史大系 第27巻 新訂増補 類聚符宣抄
 国史大系 第28巻 新訂増補 政事要略
 史料京都の歴史 第1巻 (概説)
これらは登録していれば https://dl.ndl.go.jp/ で読めます。

蔵書
 国史大系 普及版 政事要略(上中下)
 国史大系 普及版 令集解(全4巻)
 大日本古記録 小右記
 有識故実大辞典
 年中行事御障子文註解
 平安時代儀式年中行事辞典
 律令制成立過程の研究
人文系学部がある大学図書館に行けば読めます。

論文
 瀬賀 正博「明法勘文機能論」(法制史研究、1999年、 49 号)
 豊田 宮子「「禄」「被け物」として贈与された装束の行方 -物語作品の記述を手がかりに-」(古代中世国文学、2016年、26 号)


雑談:
あたしが研究対象にしているのは男性官人の装束なんですけど、当時の装束は後染めなんです。服を作るときって、糸が染められていて織っていくパターンと白い反物を染色液につけてあとから染めるパターンがあるのね。

平安時代から室町時代までは、白い糸で織った反物を染色液に付け込んで黒や紫に染めることをしていたので、ひょっとしたら、どうにか頑張ったたら緋色から浅紫、深紫へは行けそうな気もする。

結局は色を収斂させていけば濃い紫や黒になるはずだけど、いろいろな溶媒を使う必要があるかもしれないから、結局、その色に合わせて染めたほうが安いのかもしれない。ここいら辺は、科学的な分析と染織家など専門の職人さんの協力がないとどうにもこうにも進まない研究課題。

あと、この前Xでも書いたように宇治市の源氏物語ミュージアムで「五倍子」のニオイが嗅げるよう。一条兼良の『桃華蘂葉』の袍の色で「ふしかね染め、くせー」とあるのでクサいのはしょうがなかったんだね。

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