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「物音」からの断想

物音 ー(どれが出したか分からないが)何かの音 ー noise, sounds

「物音」、2010年代にエクスペリメンタルと形容/タグ付けされるような音楽を聴き、探したことのある方であれば、その紹介文などでこの言葉に触れた方も多いのではないかと思います。
現在、この言葉は物音作家、物音レーベル、ひいては物音系、物音的ななにがし、といった具合にエクスペリメンタルな音楽の中でのある種の特性やニュアンスを表現する意図で、ある時はジャンル・タグ・キーワードのように、またある時は音を発する手法を指して用いられています。

本稿はこの「物音」という形容、分類について、その用いられ方や意味合いを探った断想です。前提として筆者がこの形容、分類やそう言われる作品などに興味を持ったのは2011年か2012年頃なので、それ以前の情報は手薄です。それ以降の動きをなんとなく掴む程度のものとしてお読みください。

また、「物音」的な手法も用いながら作品制作などされているLeo Okagawaさんがつい先日同傾向の記事を公開されていますので、ぜひ本稿と合わせてお読みいただければと思います。



1. 出会い

実験的な音作品などに対し「物音」という言葉がある程度形式化されまとまりを持ったかたちで用いられるようになった時期や経緯はわからないのですが*1、私がその存在を意識したのはたしか2011年頃、イタリアのサウンド・アーティストGiuseppe IelasiによるSenufo Editionsの作品においてではなかったかと思います。記録が残っていないので事実的に危ういのですが、たしかこのレーベルから発表された作品に関してのレコードショップ(Art into Life、Meditations、Ftarri、Omega Pointなど)の紹介文で、レーベルのいずれかの作品のサウンドを表す語として「ループ」や「微音」などとともに「物音」という語を目にしたと記憶しています。

Senufo Editionsはレーベル・オーナーであるGiuseppe Ielasi自身をはじめイタリアの実験音楽の作家、更にそれ以外の国の作家の作品や過去の電子音楽の再発も行うレーベルですが、ことイタリア系の作家のリリースにおいては「物音」と表現できるような仕上がりの作品は非常に多く、またそのような方向性のリリースがGiuseppe Ielasi『15tapes』やAlessandro Brivio『6pezzi2009+lagodelnulla』を始点として2010年に始まり、2012年頃までにはRenato RinaldiNicola RattiEnrico MalatestaLuciano MaggioreAttila Faravelliなど一通り出揃うことを考えれば、ここで示されたサウンドや方向性が以降2010年代を通して広がっていく「物音」系の作品をリリースする小規模レーベル(記事の末尾にまとめています)の流れに与えた影響は少なからぬものがあるように思えます(更にレーベルの共同設立者であるJennifer Veillerobeの作品もここに加えてもいいでしょう)。

また、こちらは2012年頃だったと思いますが、Stephen Cornfordの登場も非常に印象深いものがありました。こちらも初めて知ったのはレコードショップの入荷情報(もしくは当時チェックしていた音楽系のブログ)ではなかったかと思います。彼はCDプレイヤーやカセット・レコーダーなどの家庭用音響機器を改造し、それ自体が発する音響を活用したインスタレーション(もしくは楽器)の制作で知られるアーティストですが、例えばSenufo Editionsからリリースされたアルバム『Binatone Galaxy』(内容は改造カセット・レコーダーによる自動的アンサンブル)などではそのサウンドに対して「物音」アンサンブルもしくは「物音」系音響作品といったような形容がなされていたように記憶しています(推測してみるなら、彼の作品がそう形容される背景には後述する「操作や意図の介在」の問題が関係しているように思います)。

注釈
*1「物音」という形容、分類のルーツといえるかはわからないですが、2003年には山田ノブオが発表した『Mono-Te-Oto』という作品があったりします。



2. 定義

冒頭に記したように辞書的な意味では「物音」は端的に「何かの音」といったニュアンスを持つ語ですが、今回取り上げるような音作品を形容する際に用いられるそれは、まず第一にはその辞書的な意味にも近い「何によるものかわからない音」というのを指すことが多い印象です。実際こういった作品では楽器以外の様々な物を発音装置として用いるケースは多く、それらが複数の種類用いられていたりすると端的に何の音かというのは言い表しにくいものとなる傾向はあるので、その物質的な抽象度を背景に「物音」という言葉が用いられているのではないかと思います。また楽器を用いているケースでも、その楽器から通常放たれるサウンドと異なった音響が大半を占めるような演奏に「物音」的といった形容がなされることがありますが、これも(どのように出されているのかわからないという意味で)何の音か判断がし難い感覚に依った用法といえるでしょう。

またそういった独自の発音装置は、自動的に作動する機工を持つ場合というのも割合多い印象で(例えばモーター式の作動部を持つ既存のおもちゃであったり、似たような仕組みを在りものの器や雑貨にモーターと作動部を組み合わせることで作り出し、自作の発音物とする中島吏英のメカニカルブリコラージュや、大城真による種々の自作楽器など)、そのようなケースにおいてはパフォーマンスにおける演者(と一般的に呼ばれる存在)による操作や意図の介在に距離があることも、「物音」というある種の無機質さを感じさせる言葉で形容される一因となっているように思います。「演奏」という表現をした際に想起される、音の背後の意思の存在を遠ざける表現として用いられているというか。



3. 用法

この「物音」という表現自体は作家が自らの作品を説明する場合より、リスナーや音源の流通/販売に関わる人間(ディストリビューター/バイヤー)によって、発音機器やそこに関わるコンセプトなどに差異がある様々な作品をどうにか一纏めにして紹介したいというマーケットの事情から用いられているケースが多いように感じます。そしてこのような用法、分類は発音機器の細かな差異やその背景にあるコンセプトを一度振り落として、サウンドの特性や手触りを重視し、いわば目隠ししたような状態で作品に触れる態度を喚起し得ます(というか私がもろにそういう人間です)。*2
「物音」と表現される作品にはバックボーンが見えにくい作家や、美術方面での活動(例えばインスタレーションの制作など)をメインとするような音楽家とだけ表記するには違和感のある作家、電子音楽での実験からアナログな要素の導入へ流れた作家、楽器演奏における音響の拡張を主眼とした作家などが入り乱れていますが、その状況も「物音」という語を喚起するような「サウンドの手触り」から作品を振り分け直した結果ととれば一応合点がいきます。*3

また、サウンドの手触り、印象によって形作られた「物音」らしさをリスナーの立場から考えてみるなら、「静謐さ」は一つのポイントになっているように思います。「物音」系の作品はその手法自体を解き明かしてみると初期電子音楽やインダストリアル~ノイズ文脈に近かったりもするんですが、そこに連ねてしまうにはサウンドの(特にラウドさの)面で何か違和感があるという作品に「物音」という形容は用いられやすいように感じます。

ただし当然のことながら「物音」という言葉は日本語なので、これを用いた音作品の形容、分類は日本独自のものである可能性があります。単純に(音作品の形容に用いられるかどうか以前に)「物音」という語自体、英語だとおそらく「sound」もしくは「noise」の意味に含まれている、つまりそれ単体としての語はないのではないかと思いますし、音作品の分類においても日本で「物音」系として括られるような作品が海外でも何か固有の名称で表現、分類されているかはいまいち掴みにくいところです*4。

注釈
*2同時代的な動向に目を向ければ、ここで喚起される態度はASMR的なアナログな音フェチ感覚であったり、もしくはニューエイジ・リバイバルとも重なるような背景や文脈を一度振り落としサウンドを評価し直す姿勢に近いともいえそうです(ニューエイジ・リバイバルでは背景や文脈を振り落とすことはある種のレッテル的イメージを剥がすことに繋がりましたが、「物音」という表現は結果的に実験音楽の過剰に思索的で取っ付きにくいイメージを剥がすことに繋がったように思えます)。ただしASMRではどこまでも人の存在や気配あっての音という位置関係であるのに対し、「物音」な作品ではそれを遠ざける意図がしばしば感じられるのが対照的です。
*3ただしこの見方は、私自身が「物音」という分類にサウンドの特性や手触りを重視し(いわば目隠ししたような状態で)作品に触れる態度を喚起された人間であるため、それと結び付けて恣意的に捉えてしまっている可能性があります。
*4ジャンルやタグとまではいかないかもしれませんが、演奏楽器のクレジットなどではObjectと記されているケースは多く目にします。また美術用語としてだけでなく音楽的な意味も持つFound objectはこういった「物音」的な作品を表現するのには適した語のように感じますが、古めかしい表現なのかあまり見かけません。



4. 見立て

物が発する、一般的には音楽的とは捉えられないであろう様々な音は、日本語であれば雑音、英語であればおそらくnoiseという感覚で処理されると思うのですが、それを必要ない耳障りな響きとしてでなく何かしらの情緒を持って受け入れる感性は、「日本人にはあるもの」と一つの通説としてよく言われます(例えば鹿威しの音を風流に感じたり、または鈴虫の音色は海外の人にとってはノイズだとか…)。しかし「物音」という分類から喚起され得る音の背景を振り落としその特性や手触りを摂取するような接し方はそれとはまた違ったもののように個人的には感じています。例えば高域のノイズが鳴る音作品を虫の鳴き声に「見立て」ながら聴くのが、先に書いたような日本人に一般的にあると言われる接し方だとすれば、「物音」という表現や分類を経た感性ではそれを特に何に見立てるでもなく、それそのものは情緒を喚起もしなければこれといった用途も持たない音を(しかし「必要ない」とはせず)部屋にちょっとした意味のないオブジェを置くように扱い接するといいますか…。*5

サティの「家具の音楽」はその発想はともかく、その音楽自体は現代の耳で聴くと意外と賑やかさや躍動感を感じさせるものだとはよく言われますし(私もそう思います)、またその影響を受けて生まれ現在では多様な音楽性を取り入れたりしながら拡張を続けているアンビエントも、音楽的な安心感やゆったりとしたタイム感がもたらす癒しや憩いの趣であったり、場所への適合や何らかの目的性など、効能や機能性などを謳った、いわば「有意」な音楽として認知されるケースが多いように感じます。
しかしながら「家具の音楽」がその中で取り上げた家具の種類*6が、「錬鉄の綴れ織り」「音のタイル張り舗道」「県知事の私室の壁紙」など、例えば机や椅子や棚などに比べ機能性や有意さが意識されにくいものであることを鑑みれば、ただ置いて無為に鳴らすことができる「物音」的な作品は、サティが取り上げた(日常の中になくても支障はない)飾りとしての「家具」に近い在り方を、非常にささやかなかたちで体現しているといえるかもしれません。

また、これはこの文章を書いている中で思い当たったことなのですが、「物音」という言葉を日常で使うシチュエーションを思い出してみると、それはどこから発された何の音かが判断しにくい不明瞭さから用いられることが多いように感じます。そしてそれが例えば自宅などのプライベートな空間に響いた場合にはそこに違和感が生じ、原因を突き止めたくなる、ある意味では強く興味を引く響きとなるケースも多くあります。となると自分がここまで書いてきた感覚とは対照的なものになりますが、「物音」という発音源が非常に多様なものをまとめた分類は、音作品に対し日常生活の中で響く物音に抱くような、発生源の詳細に行き着かねば落ち着かない違和感を喚起する可能性も持ち得ているように思います。

注釈
*5Giuseppe Ielasiは『15 Tapes』の制作に行き詰っていた時Jennifer Veillerobeから"If you like listening to those sounds, just let them be."とアドバイスを受けたと語っていますが、「物音」系の作品に対する接し方としてもこの「そのままにする」というようなニュアンスは馴染む感覚があります。http://surround.noquam.com/on-senufo-editions/
*6サティの「家具の音楽」は正確には全5曲あり、それらを作曲された時期に準じて並べると「錬鉄の綴れ織り」「音のタイル張り舗道」「ビストロにて」「サロン」「県知事の私室の壁紙」となります。このうち先の文中で挙げた「錬鉄の綴れ織り」「音のタイル張り舗道」「県知事の私室の壁紙」は一応家具と認識できそうですが、「ビストロにて」と「サロン」は家具というより空間を指しており、先の3つとはやや方向性が異なるように思えます。



5. 補足

「音をただ置く」とでもいうような感覚を私が喚起されたきっかけであるSenufo Editionsの「物音」的な初期作品は、アートワークや装丁にこだわりを感じられるもののその多くがCDであり、カセットやレコードなどのアナログメディアであったほうがより伝わりやすいこういった感覚を、いわば音のみでどうにか伝えようとしている印象がありました。その点2010年代に多数発足した「物音」的な作品を(も)扱う他のレーベルは、リリースフォーマットとしてカセットを採用している場合が多く、「音をただ置く」感覚とアナログメディア、特にこじんまりとしたカセットの趣や作動感、音響特性との相性のよさに着目しうまく活用しているように見受けられます。

Senufo Editionsは2014年辺りで一旦リリースが停止し、2017年にGiuseppe Ielasi『3 Pauses』のリリースで再始動したのですが、この作品には ”Electronic music realised between 2014 and 2016, to be played at low volume.” というごく控えめな情報と推奨以外にこれといった記載がなく、またその内容も何の音なのか非常に判別がし難い不明瞭さを持ったものとなっています。もちろんそこに疑問を抱けば”Electronic music”という一応の答えにあたることはできるわけですが、この記載の仕方は不親切というか、この点についてこれ以上深掘りすることに意味はないとでもいうような素っ気なさを感じますし、小音量の再生を推奨していることを含めると、本作は意識や興味を惹くことよりも淡く気化された音のテクスチャーの表層が耳の庇にわずかに届くような、それこそ視界には入っているがほぼ存在を意識されてはいない壁紙の模様のような在り方を希求しているように思えます。これ自体に物=objectでの発音はおそらく含まれていないにも関わらず、本作は私がその形容から喚起された接し方にこれ以上ないほどそぐうという意味で「物音」性の結晶のように捉えられるので、この断想と合わせて聴いていただくとここまで書いてきた感覚は伝わりやすいのではないかと想像します。

ここまで述べてきた感覚は私個人がリスナーとして接していた中で生まれてきたものであり、更に作品の内容だけでなく(おそらく日本独自の)「物音」という紹介の仕方が合わさることによって喚起された面が強いため、海外の制作者たちの認識とは大きくズレがあるかもしれません。この点留意していただいたうえで、本稿が「物音」的な作品群を知ること、それへの接し方の手掛かりになれば幸いです。

https://senufoeditions.bandcamp.com/album/3-pauses



6. レーベルリスト

最後に、ここまで言及してきた「物音」的な作品をリリースしている、2010年以降に発足したカセットレーベル群を以下に列挙しておきます。必ずしもそういった作品ばかりをリリースしているというわけではなかったり、最近はそういった作品はリリースしていないレーベルもありますが、是非いろいろ聴いてみていただければと思います。取っ掛かりとしては、ここに挙げるレーベルの複数から横断的に作品をリリースしていたり、またはレーベルのオーナーでありアーティストでもあるといった存在、例えばChemiefaserwerk、Giovanni Lami、Philip Sulidae、Phil Maguire、Ludwig Berger、Matt Atkins、Masayuki Imanishi、Abby Lee Teeなどはこういった動きのハブとなるキーマンといえそうなのでおすすめです。

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