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3つの与論島

ヨロン島

「よろんとう」だと思っていたけど本当は「よろんじま」なの?

 最近、与論島がテレビで紹介されるとき、よくSNSなどでよく目にします。「よろんとう」はなんとなく聞いたことがあるし語呂が良くて、これが正しい呼び方かと思ってしまいますよね。「『よろんじま』なんて言っちゃって、アナウンサー間違えてるじゃん!」みたいな。
 でもこれは、かつて島が観光ブームに沸いたときに作られたブランド名のようなもの。表記も「ヨロン島」として、あたかも外国の島であるかのようなPRをしていたのです。この頃全国的に与論が知られはじめたため、「よろんとう」が多くの人に馴染みがあるというわけ。今でも島の観光協会は「ヨロン島」を使っています。
 ですから正式には「よろんじま」。アナウンサー間違えてなかった!

 戦後米国の占領下に置かれた奄美群島は1953年、日本に復帰しました。沖縄はまだ返還されていませんから、当時は与論が日本の最南端。
 1960年代後半くらいから、自由や手つかずの自然を求めて日本の端にまでたどり着いたヒッピーを中心とする若者たちの口コミによって、南の楽園与論島の名が口の端にのぼるようになったとのこと。1970年頃にはメディアの紹介や旅行会社の後押しもあって、与論は本格的に観光地として売り出していくのです。
 1972年に沖縄が復帰した後も、それまで鹿児島から丸一日以上かかっていた海路が沖縄からなら数時間と劇的に短縮されたことや、1976年の空港開設もあり、客足は伸び続け1979年にピークを迎えます。

 当時人口7000人の離島に観光客が実に15万人以上! それもほとんどが夏の2か月に集中するのだから、その混雑ぶりは想像するに余りあります。商店や飲食店が集中するメインストリートである茶花の与論銀座は人でごった返し、すれ違うには肩がぶつかるほど。宿も相部屋当たり前、廊下にまではみ出して雑魚寝する始末。ディスコが乱立し連夜あちらこちらで大騒ぎが繰り広げられていたとか。

 主に女性に人気ということで男どももウヨウヨ集まってきました。あてもなく島に渡って現地で適当に住み込みできるバイトを探し、夏休みを過ごすという連中も多かったようで、『東京エイティーズ』(原作・安童夕馬、画・大石知征、小学館刊)という漫画にも当時の様子が描かれています。
 最近「子育てのしやすい島」として同じく鹿児島県の十島村が話題になったりしていますが、当時の与論は「日本一子作りのしやすい島」だったのかもしれません(←下ネタ)。

パナウル王国

 ブームのピークを迎えた後、観光客は徐々に減少しはじめるのですが、そんななか活性化策として採用されたのが独立国。
 井上ひさしの小説『吉里吉里人』に端を発して日本全国に同様のミニ独立国が設立されるなか、与論も町制20周年を記念して1983年「ヨロンパナウル王国」を建国しました。与論の方言で「パナ」は花、「ウル」はサンゴを意味します。町長が国王を務め、観光協会を総理府、農協を農林省と呼ぶなど、島をあげての観光アピールが展開されました。

 その後、ほとんどの独立国は雲散霧消するわけですが、なんとパナウル王国は30年以上たった今でも継続中です。
 観光協会で発行されるパスポートには入出国のスタンプがもらえるほか、国家やパナウル語(与論方言)の辞書、地図、スタンプラリーが掲載されているばかりか、提携の店舗で10%の割引が受けられるなど、なかなかの使いで。その表紙にも使われている王国のシンボルで、頭部が鳥、胴体が魚の「カリユシの像」には、島内各所で出会えます。

ゆんぬ

 そして「ヨロン島」「パナウル王国」のほかにもう一つ、与論と名付けられるはるか昔から、この島は「ゆんぬ」と呼ばれていました。これがもともとの名前です。順序としては16世紀はじめ「ゆんぬ」に「與論」の文字が当てられ、そこから「よろん」の呼び名が生まれたといわれています。
 なぜ「ゆんぬ」が「与論」となったのか。その由来には諸説あって詳しくはわかりませんが、与論方言は「ゆんぬふとぅば」、島で生まれた人は「ゆんぬんちゅ」など、いまも島の暮らしにはその響きが色濃く残っています。

「ヨロン島」「パナウル王国」「ゆんぬ」と、人がそれぞれの名前で与論を呼ぶとき、頭の中ではそれぞれ違った姿を思い浮かべているのかもしれません。

 与論では人にも戸籍上の本名の他、代々その家に伝わる名前「ヤーナー」がつけられるのですが、それはまた別の機会に。

山の国に住みつつ与論島をテーマに活動中。なぜ? どうして? その顛末は note 本文にて公開中!