「いろいろある」論法
何か(Twitterでよくみる例だとたとえば人文学やフェミニズムなど)が批判された時、それにも色々あって一枚岩の主張はないのでまとめて批判することは適切でない、という反論が行われる時があります。そして、こういった批判は差別意識や不当な攻撃の意図が含まれている、とほのめかされることがあります
悪魔の証明
しかしこのような議論は悪魔の証明を求めていることになりかねません。全てに妥当する批判を考えることは難しいからです。さらに挙証責任を批判者に負わせています。一般的にいって、ある学問活動や思想を擁護したり主張したりするときには、そうする人に挙証責任があるように思います。ここではそれが批判する側にシフトされています。さらに批判者は人文学やフェミニズムに、その従事者や支持者に比べて詳しくないでしょう。この点でも批判者が不利になります。批判に見るべき点があったとしても、です。
一般的な主張はそんなに良くないか
「人間は」「人類は」といった「主語の大きい」主張は嘲笑されがちです。間違った主張のメルクマールとされることも多いです。
しかし、「人間は二つの手がある」は主語の大きい主張ですが真っ当な生物学的主張です。ここで注意すべきなのは手が二つない人間もいるということです。数学のような特殊な領域を除けば例外のない主張をすることはほとんど不可能です。そして例外を含む主張をしたからといって、例外にあたるとされた何かにマイナスの価値を付与しようとしているとは限りません。片腕を無くした方に尊敬を払いながら、人間は通常腕は二本あると述べることができます。
人文学の例に話を戻すと、文学や哲学のようなもっとも「人文学」らしい分野では過去のテクストを読解することが思考の重要な手段である点で他の分野とは特異性があるように思います。また、暗黙の人間中心主義もあるように思います。ここでの人間中心主義とは、どんな現象であれ人間との関連の中で取り上げられがちだということです。土星の衛星を論ずるのに、それ自体の物理的特性ではなく人間社会との関わり取り上げがち(それ自体の特性という考えも含め)ことも言えると思います。
色々ある論法の便利な点
色々ある論法を持ち出す人の多くは、批判対象になっているものから利益を出ていたり(人文学者)支持者であったり(フェミニスト)します。色々ある論法は挙証責任を批判者にシフトできるだけでなく、たとえば具体的にどういう人文学があってどのように批判を免れているかを明示しないため、なんとなく批判対象全体を弁護できてしまいます。仲間内で波風を立てなくて済むというわけです
まとめ
ネットで見かける「色々ある論法」を批判しました。
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