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お葬式は誰のもの?令和に振り返る、平成のお葬式今昔|サービスの裏側

こんにちは、よりそう広報のタカダです!
梅雨を先取りしたようなジメッとした天気が続いていますが、皆さまいかがお過ごしですか?
ところで先日、こんなリリースを出しましたよ。

一都三県にお住まいの方に「家族葬って聞いて、どんなイメージ?」と様々な角度から聞いたアンケートをまとめてみました。

結果的に「シンプルでイマドキだし、いいじゃない!」という声が多く、7割方が家族葬を利用したいと答えてくださったので、家族葬を提供する会社としてはとても後押しになる結果となりました。
一方で、「費用は30万円以下がいい」と答えた方が6割いらっしゃったことに(お通夜・告別式を両方あげるにはちょっと足りない金額だなあ……)と焦ってみたり、「参列者は10人以下」に回答が集まって(もう故人さまのいとこや義理の兄弟も呼ばないくらいの意識なんだなあ……)と、よく言われる「従来の葬儀」からの大きなトレンド変化も実感しました。

……などと、結果を見ていたらお葬式の変遷についてウワーーーっとお話ししたくなったので、私見や個人的な経験も交えながら、ここ30年程でなぜ家族葬が受け入れられるようになったのか考察してみたいと思います。

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「葬儀概論(※「葬祭ディレクター技能試験」公式テキスト)」によると、1991年ごろは一般の方の葬儀でも平均280名も参列していたそうです。(!!!)
それを考えると、「10名以下がいい」ってことは規模が30年で1/28にまで縮小しているわけですよね。平成から令和に時代が移り変わったこの30年で、いったい何が起きたのでしょうか。

実はこの数十年で、亡くなる場所は《自宅から病院・施設へ》と変化しています。これは医療の進化で自宅以外の場所で長期医療が受けられるようになったことや、高齢化によって養護施設が増加したことが大きな原因です。
また、お葬式の会場も《自宅から斎場へ》と変わっています。これは亡くなる場所が自宅ではなくなったことに加え、住宅の狭小化・集合住宅の増加も原因とされています。

この二つをもって葬儀関係者の中で言われているのは「生活と”死”が切り離された」ということです。これには二つの側面があります。
ひとつは、斎場でのお葬式が増えたことでご近所さんのお葬式を見かけたり参列する機会がなくなるため、自身や身内のお葬式について思いを致す機会が減少するということ。
もうひとつは、心配な方がいたとしても別々の場所で生活するため(例:病院と自宅)、命が終わるまで共にする時間が短くなるということです。
共にする時間の減少は、そのままお別れを覚悟する時間の減少につながっていきます。(※これは自宅での看取りを推奨するものではありません)
すると、ご家族は大切な方の死を受け入れるのに必要なプロセスをお葬式に求めるため、必然的に「お葬式=ご家族がゆっくりお別れする最後の機会」となっていきます。

一方で、30年ほど前のお葬式は「社会に対して故人の死を告知する」機能が強かったことから、広く参列を募ることが一般的でした。また、かつてはご近所ぐるみ・会社ぐるみでお葬式をあげることもよくありましたが、最近ではご近所づきあいや会社の人とのつながりが希薄化していて、お葬式の運営や参列に《身近な他人》が関与する機会が少なくなりました。
すると、必然的に遺族主体でお葬式を運営することになりますが、参列者が増えれば増えるほど、遺族側に“おもてなし”の負担が重くのしかかります。
これは個人的な経験ですが、かれこれ30年近く前に母方の祖母が亡くなった際、母や親せきの女性陣が泣く間も惜しんで親せきに応接していた姿が印象的でした。(時代も時代だし、地方なので、こうした場面では女性が“おもてなし”役になりがちだったのだと想像します)

家族主体でお葬式をあげるとなったときに「身内だけでお葬式をしよう」と判断することは、このご時世において(コロナ関係なく)ある意味必然なのかもしれません。
身内だけでお葬式をあげるとなれば、社会の目を気にする必要がなくなるので、高額な費用をかけて派手なお葬式をあげなくてもよくなります。そのあたりが《家族葬=シンプルでイマドキ》という肯定的なイメージにつながっていそうです。
「《個の時代》になった」と言われて久しいですが、お葬式にもそれは色濃く反映されているんですね。
《お葬式の小規模化》と一言で言うのは簡単ですが、その裏には様々な要因が絡み合っていることを再確認したタカダなのでした。

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